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アインシュタインの手紙  | 移民の歴史
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また、8月6日、広島に原爆が投下された日がやってきました。

日本時間ではもう昨日の事になりますね。

さて、毎年のようにこの原爆に関する内容を広島出身の人間としてこのブログに掲載し続けていますが、

今日の主題は、マンハッタン計画の発足に大きく関わったアインシュタインの手紙を取り上げてみたいと思います。

当時、原爆開発に携わった科学者がどのような気持ちでこの死神兵器の開発に当たっていたのか?

僕はこのリサーチを通じて、それをほんのすこし垣間みた気がします。

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時は1933年にさかのぼります。

ドイツに住んでいたハンガリー出身のユダヤ人、シラード博士はスーツケースを手にオーストリア行きの列車に飛び乗った。

ナチスドイツの独裁体制の確立を知っての行動だった。

ウィーンではドイツから次々に亡命して来る学者達の受け入れ先を作る為の世話に没頭した。


その後彼はイギリスへ移り住み、オックスフォード大学で教鞭を取る。

その頃『中性子による連鎖反応』の理論的可能性を見ていくつかの特許を取得した。

すでにシラードはこの連鎖反応の中にかつてSF小説で読んだ核戦争の勃発を予見していた。

1938年第二次世界大戦勃発前、アメリカへ亡命する。

アメリカでの彼の核分裂に関する研究は、資金不足の為遅々として進まず。

やがて、あきらめかけていた。 彼は失意のうちにイギリス海軍へ特許の機密指定解除を願い出る手紙を送った直後、核分裂という反応が発見されたという知らせを受ける。

彼は慌てて手紙の取り消しを求める電報を打った。

核兵器実現の可能性を明確にイメージしたシラードは、同時にナチスドイツがその研究開発を行い、完成させる事を懸念していた。

1939年シラードとフェルミの研究グループはコロンビアでウランの核分裂実験を行った。

『私たちがしなければならなかったのは、背もたれに寄りかかりスイッチを入れることだけだった…。〔オシロスコープに〕輝きが現れ、それを10分ほど見つめてから…家へと戻った。 その夜、私は世界が悲しみへと向かっていることを知った。』

シラードはそのときの気持ちをこう記している。


彼はこの実験結果がナチス側に知られる事を恐れ、実験結果を秘密にしておくように強く主張したが、この年の4月末には、ウランの同位体が分離できさえすれば、一つの都市を吹き飛ばす爆弾になりうるというセンセーショナルな記事が新聞を賑わせることになった。


急がなければ、ナチスが核爆弾を手に入れて世界中の国々を破壊してしまうかもしれない・・・・


シラードらはアメリカ政府にドイツの核開発の危険性を訴えたが、亡命者の意見は取り合ってもらえなかった。


そんなおり、親しかった科学者の中で最も知名度の高かったアインシュタインに署名してもらい、ルーズベルト大統領に直談判する事を決定した。

それがアメリカの国家機密核兵器開発プロジェクト マンハッタン・プロジェクト の発足の決定打となった

アインシュタインの手紙でした。

*アインシュタインは手紙に署名しただけで、「マンハッタン計画」には参加していない。彼は、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。


やがて、プロジェクトは亡命ユダヤ人科学者達を中心に延べ15万人の科学者と技術者、そして20億ドルもの資金が投入された。


1945年7月16日にニューメキシコで行われたTrinity実験が、世界最初の核実験でした。

原子爆弾が充分な破壊力を持つ事を証明した。


こうして原子爆弾が完成した時点では、既にドイツは連合軍に降伏していました。

ユダヤ人科学者で構成されていた原子爆弾開発チームにとって、核保持の疑いがあったのはドイツであって、

ユダヤ人の弾圧行為に対する復習もナチスドイツだった。

日本は彼らの仇では無い。

それに、日本帝国はアメリカがわざわざ原爆を投下せずとも、もう資財も燃料も尽き、降伏するのも時間の問題だとういう報告も出ていた。


オッペンハイマーは『20億ドルもの資金をかけて何も結果を見せないのは国民が許さないだろう。』と、言い。

ドイツ出身のユダヤ人科学者ジェームスフランクは、『各国の前でデモンストレーション(砂漠か無人島にて)で示すことにより戦争終結の目的が果たせる。』と主張! 彼は大戦末期の1945年6月11日に、対日戦での原爆の不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を政府に提出した。

シラードにとって「原子爆弾」とは、ナチスの脅威に対抗するためのものであって、日本に使用するためのものではなかった。 再びアインシュタインに手紙に署名してもらい、エレノア・ルーズベルトとの面会日程を取り付けた。 がその日を待たずにルーズベルト大統領は他界した。




アメリカにとっての原爆投下は、もはや同じ連合国だったソ連への威嚇行為に変わっていた。

ソ連は太平洋戦争、戦後処理で最終的にアメリカと互角の立場に立つはずだった。


ユダヤ人亡命科学者達のナチスドイツに対する恐怖が生み出した原子爆弾。

彼らはナチスドイツへの復習と人権保護を願っていた。

アメリカはソ連が欲しがっている日本の領土へ原爆投下する事で戦後処理の優位性を握ろうとしていた。


その挟間においてほんの少しだけ、広島の、そして長崎の運命は揺らいでいた。


ほんの一握りの科学者達が、その運命を変えようと奔走していた。

原爆を考え作り上げてしまった者達が、その恐ろしさを一番よく知っていたからだ。

オッペンハイマーも又、広島の破壊の爪痕を見て、水素爆弾の開発指揮を拒否した。

彼はその地位を剥奪されてしまった。

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テーマ=戦争・原爆 - ジャンル=政治・経済

【2011/08/08 15:56】   トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑






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