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オバマ大統領を育んだ土壌  | 海外旅行
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月曜日が無料開放の日だったので、シカゴ歴史博物館(Chicago History Museum)へ行った。

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そこにはこのドデカイリンカーンの銅像が建っていた。

シカゴはリンカーンゆかりの土地らしい。

ケンタッキー生まれ、インディアナ州育ち、22歳で単身イリノイ州へ移り住んだ。

イリノイではブラックホーク戦争でインディアンと戦い、その後弁護士としても活躍しました。


当時、南部は、ヨーロッパ輸出用に綿花などの農業生産が中心に経済が動いていて、1607年のイギリスによるヴァージニア植民地に始まる黒人奴隷制度は,その労働力供給源として貴重でした。

しかし、近代工業化の波が押し寄せ、ヨーロッパ諸国からも経済的に独立しつつあった北部は、ヨーロッパ依存型の南部とはまったく異なるイデオロギーで発展して行ったようです。


なので、南側では農場主に使える労働が主に必要とされ、北側では工業作業員が必要とされた。

だから、北部の黒人と白人の関係は必然的に南部の奴隷制度とは異なり、賃金制で雇い入れ、衣食住は自分でまかなうようになっていった。(低賃金で衣食住をまかなわなければならなかったので、実際には奴隷制の頃の方が生活が楽だったとも言われている。)


さて、ミュージアムで見た黒人開放政策は教科書が教えるのと同じで奇麗事だらけだったけど、リンカーンはどうやらそれほど人種差別反対論者でも無かったとも言われてる。

それが証拠に、祖父をインディアンに殺されたリンカーンは、インディアンの徹底的な弾圧を行っている。



工業の発展のため、低賃金の雇用を獲得する。



これが北部の工業の発展を支える条件だった。 

ヨーロッパからの移民達はその生活の苦しさから、賃金の値上げを訴え始めていた。


それで考えたのが 南部に奴隷達を解放させること。


そうすれば、白人労働者の賃金交渉なんてしなくてすむし、もっと労働力の供給が安定する。


しかし、それは同時に南部の地主達にとっては死活問題でもありました。


奴隷解放に反対する南部はリンカーン大統領の就任を認めようとしませんでした。


やがて、リンカーンは南部へ兵力を送り込み、それが南北戦争(1861年)へ発展して行きました。



南北戦争当時軍隊は志願制だったから、両軍共に兵員の補充に苦しみました。

この為白人だけでなく黒人も参加させることを考えたのです。

南部では志願する黒人には奴隷からの解放を、北部では奴隷制の廃止を約束することで黒人兵を招集しました。


1983年のリンカーンの奴隷解放宣言などを経て,
一応,1865年のアメリカ合衆国憲法修正第13条の成立で,法律上は「廃止」されています。
もちろん、人間としての扱いを望んだ黒人が北部に流れ込み、北軍の為に戦いました。


以後、多くの黒人が南部から北部へ移住するようになり、労働力の供給が安定したため、次第にヨーロッパからの移民が減少していきました。


最初の動機がどうであれ、リンカーンの進めた奴隷解放運動はやはり彼らに大きな影響を与えたに違いありません。


しかし、黒人差別は根強く,黒人にはいわゆる公民権は与えられず、 あらゆる面で階級差別がおこなわれ、それどころか、黒人を差別するための法律(ジム・クロウ法)が制定されてきました。
第二次世界大戦中や朝鮮戦争中の兵士の処遇においても、黒人差別は公然とおこなわれていました。

1950年代から1960年代にかけては、黒人の公民権を求める、公民権運動が高まった時代です。

シカゴで行われた公民権運動の規模も、この人口比率のおかげでかなり大規模なものになりました。


今回のシカゴ旅行では、街のあちらこちたで元気に生き生きと働く黒人の明るい笑顔がとても印象的で、彼らから、奴隷解放運動の草分けとなったシカゴの空気を感じました。


そんなシカゴからオバマ大統領が排出だれたのは必然的なことだったのでしょう。
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テーマ=海外旅行 - ジャンル=旅行

【2011/07/03 20:58】   トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑






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