![]() 1897 創設 Hotel Weatherford 古くから ハンフリーズ・ピークスキー場や、 バリンジャー・クレーター、グランドキャニオンへの観光の宿場町として栄えた。 ![]() Flagstaff にはこんな歴史を刻み込んだ由緒ある建物が数多く、そこにいるだけでノスタルジックを感じるんです。 ![]() 地名は1876年にアメリカ独立100周年を記念して立てられた旗竿に由来する ![]() なんと! 一泊5ドルのモーテル!!かつて ルート66 を通ってシカゴからサンタモニカへ行く道中の宿場として栄えたフラッグスタッフには、当時のこんな宿場街の名残も残っています。 以前フラッグスタッフに映画の撮影場誘致の話がありましたが、話は途切れ映画産業のメッカはハリウッドに決定しました。 しかし、その後もたくさんの作品がここフラッグスタッフで撮影されました。 僕たちが行ったときもちょうど何かの映画のワンシーンが撮影されていました。 特にフォレストガンプの疾走シーンの中ではこのフラッグスタッフのダウンタウンを走り抜けるシーンが撮影されています。 あれはルート66だったんですね〜 冥王星を発見したかの有名なローウェル天文台がある。 |
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世の中の多くの人がこの歌をNat King Coleのオリジナル作品だと思っているが、実際には1927年に発足した国道66号線協会が1940年代に打った、ルート66の利用者増を狙ったプロモーションテーマソングで、Bobby Troupが書いたものをNat King Coleによって初めて1941年にレコーディングされました。60年代には再びThe Rolling Stones のカヴァー曲がヒットしています。 その後この曲は恐慌、さまざまな国の政策や西海岸ブーム、ヒッピー文化の開花などを経てカリフォルニアの発展とともにさまざまなアーティストに歌い継がれてきました。 その後協会はフリーウエー40号線の設置計画が進む中1976年に解散しましたがこの歌の人気は根強く。 1990年、アリゾナ州とミズーリ州でそれぞれルート66協会(Route 66 Association)が発足した。 40s Nat King Cole 60s The Rolling Stones 70s Dr.Feelgood 80s Depeche Mode 00s The Legendary Tiger Man Asleep At The Wheel John Mayer |
![]() グランドキャニオン観光を終えた僕たちは、 Flagstaffで一泊する事に決めていた。 かつて、イリノイ州シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結んでいたあの、ルート66 に出会うためでした。 この全長は3,755km(2,347マイル)のアメリカ大陸を東西に突き抜けていた旧国道は、合衆国南西部の発展を促した重要な国道であった。 今現在は、1985年に州間高速道路のフリーウエー40号線が開通したためその役割を静かに終えました。 そもそも66の成り立ちはセントルイスとスプリングフィールド間を通っていたオサゲ・インディアン・トレイルという、先住インディアンが作り上げた道がはじまり。 1800年代初頭、電信電報の発達に応じて、アーカンソー州フォートスミスまで電報線が引かれ、この道はいつしか ワイヤーロード と呼ばれるようになりました。 合衆国で国道システムの設置が提唱されたのは1923年のことです。 国道は60から始まり東西線には偶数があてがわれる事が決定した為、当時から合衆国東西に結ぶこの道には言いやすく覚えやすいゾロメの66があてがわれました。 国道法が正式に創設されると、1927年に国道66号線協会が発足して、舗装促進が急がれました。 1930年代は大恐慌の最中、ルーズベルトの公約によって景気回復の為にニューディール政策の一環で行われた公共事業によって、多くの失業者が仕事を求めてこの道を東から西側へ移り住みました。 1933年当時のアメリカの失業率は75%に達っしていました。 1940年代は第2次世界大戦のあおりを受けて、ウエストコーストで軍需産業が発展、多くの人がこの道を通って移住した。 1950年代、太平洋戦争に勝利したアメリカは古き良きアメリカの時代。 街は好景気に沸き、人々はこの国道66号線を通って、グランドキャニオンやバリンジャークレーター等の 観光地を訪れ、そしてハリウッドを目指した。 ルーズベルト大統領が生前、国立公園のグランドキャニオンを 『アメリカ国民ならば一度は行って見るべきだ!』 と言ったことから、ルート66はアメリカ合衆国きっての観光ルートとなりました。 そんな ルート 66 の華やかな時代は1956年に アイゼンハワーが連邦補助高速道路法に調印した時点で衰退の運命が決定付けられました。 長きに渡りアメリカの内陸部の州に活力を与え続けたルート66が廃止の懸念が出て来た事で、産業の衰退を恐れる地方の自治体が訴訟を起こしなんとか66を保護しようとしました。 そればかりか、人々の心に根付いたルート66への愛着はフリーウエー40号線に取って代わろうとする66をHistoric ロードとして保存する運動を強めていき、 やがて60年代70年代を通してポップカルチャーへと変化して行き、数多くの音楽や映画のシーンに刻み込まれ、人々への愛着をより深めていきました。 そして、最西端の ルート66ヒストリックロード がある Flagstaff ではしばしばハリウッド映画の撮影が行われている。 道は権力者の一声で太くも細くもなる。 完全にかつての華やかさを失ったルート66 しかし、その存在が人々に与えた功績は大きい そこに暮らす人々のルーツ66、 アメリカが不況にあえいでも、 民衆の心に希望の導きとして存在し続けた。 66は、いつまでも心に刻まれて いつまでも存在し続けるでしょう。 |
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Paper Planes この歌はM・I・Aの作品で、密入国者の事をアイロニカルに歌った作品。 本人自身もスリランカの国内紛争の際にイギリスへ亡命した体験を持つ。 あ〜あそうさ!あたいらは命がけでここへやってくる。 わるさをして、あんたのお金を頂にくるんだよ! もちろんほんとうにそんな事をこの歌が言いたいわけでは無い。 皆、自国でもっとシリアスな現状に直面している。彼らは明日の命をつなぐ為に亡命してくるんだって、何で解らないかな〜? って言いたいの!彼らに来て欲しくなかったらもっと他に、根本的な問題があるでしょう? そんなM・I・A の本音が隠されたメッセージ。 M・I・A Missing In Action(戦闘中行方不明)の略。本名マタンギ・マヤ・アルプラガサムは両親が仕事の都合でイングランドに滞在していた頃にロンドンのハウンズローにて生まれた。 半年後には両親とともにスリランカに渡る。しかしスリランカのタミル人による独立自治権を求める武装勢力組織LTTEのオリジナル・メンバーである父はまもなく政府に身を追われるようになり、彼は家族と生き別れになる。 内戦を通じてマヤ達一家は多くの親戚や友人をなくし、マヤが11歳になる頃には母とマヤ達三人の子供を連れ難民としてイングランドに移住する。そこでマヤはパブリック・エナミーなどのヒップホップ、およびダンスホールレゲエといったクラブミュージックに初めて触れた。 著名なデザイナーを輩出しているセントラル・セント・マーティンズ美術学校を卒業。エラスティカのツアーのドキュメンタリー映像なども手がけ、映像ディレクターとしても活躍。ツアー中前座を務めていたPeachesとの出会いが音楽を始めたきっかけ。 M・I・A Myspace |
![]() Sedonaを後にした僕達は少し時間があるのでN179号のかわりにN89Aを通って北上する事に決めた。(お急ぎの方はNI17からNI40へ抜けるコースがお勧め) 山間部の川沿いに作られた89Aは緑も多く、その景観はまるで日本のドライブコースを走っているようでした。 ![]() いったん W I40を西に走り、N64へ抜けるとまっすぐどこまでも続く長い道まるで空へ続いているようです。 ![]() セドナを出発して約二時間。 ようやくGRAND CANYON SOUTH RIM の入り口が見えました。 入園料は車一台につき $25 ちょっと高めですが一週間何度でも出入りが可能です。 国立公園では車だけでなくバックパッカー対しても$10の入園料を徴収して園内で一日に排出されるゴミや非尿などを制限しているそうです。 自動車は園内5箇所にある駐車場へおいて、フリーのシャトルバスを利用しながら景観を楽しみます。 シャトルバスは、 西側景観ラインのREDライン ![]() 中央キャンプ施設移動ラインのBLUEライン、絶壁沿いにトレイルが作られているので、景観を満喫しながら散歩ができます。 ![]() 東側景観ラインのGREENライン ![]() と分かれています。 ここでは馬がコロラドリバーまで下るトレイルがあるので、少しばかり徒歩で下ってみました。 なんと言っても25mileもはなれていて、シャトルバスが行かないDesert View がお勧め。 7月7日からシャトルバスが運行になるそうです。 ![]() ここのタワーに上ってキャニオンを見下ろすと、CRORADO川の蛇行や、休火山の噴火口なども眺める事ができます。中世ヨーロッパを思わせるような景観に思わずため息。 |
![]() 179号線から89A号線に入るともうそこはスピリチュアルタウンSedona まず真っ先に向かったのがこのチャペル Capel Of The Holy Cross 50年前に建てられたこのカトリック教会はセドナの数多くある教会の中でももっとも有名な名所になっています。 僕達は一日しかステイできなかったので、まずインフォメーションセンターへ行きました。 すると、一日で見て回れるロケーションを案内係のおじさんが懇切丁寧に教えてくれました。 その中でも upper Red Rock Loop は高い場所からレッドロック達を見下ろしながらループ上に走り、途中から舗装されていない道路を走ったりして、プチネイチャーな雰囲気もあって、ハイキングをする時間が無かった僕達にはとっても最高でした。 ちなみにココの土地 3エイカーが$700.000って札が出ていました。 でも少し繁華街へ寄ったレジデンスエリアでは 2Bed Roomコンドーが$300,000 と、現在価格が急降下中のサンディエゴより高い。 ![]() それから、Airport Mesa は高台から Cthedral Rock を含み180度以上の景観を楽しめます。 ![]() ローカルが食事に行くリーズナブルなレストランAirport レストランがまた、おじさんお勧めのスポット。 まるでマチュピツを思わせるような、崖っぷちの平らになったてっぺんが滑走路になっていて、その入り口付近にレストランがあります。 少々古い建物だったけど食事も接客も良好!! 通常はここから夕日が沈むのが見えるらしいのですがあいにくの曇り空だったので、見れませんでした。 Airport Rd. を下った正面に今日の宿泊のBest Westernがありました。 ここはさすがにグランドキャニオンに継いでアリゾナの観光地代位!という事で、昨日のモーテルより高めでした。 Sedonaの建築物の多くが、Adobeという日干煉瓦を使ったプロブエ式住居に似ています。 鉄分が沢山含まれた赤土の景観に溶け込んでとても趣があります。僕達が宿泊したホテルもまた、このブロブエ式住居に似せたものでした。 せっかくの Sedona 旅行は夕方から夕立に降られていったん休止せざる終えませんでしたが、ホテルバルコニーから見える景色もまたレッドロックで、カメラを片手に写真を撮り続けました。 ![]() 雨が晴れてからの2時間、しばらくまたドライブに出ました。 ため息が出るほどきれいな街です。 このホテルのブレイクファーストはとっても満足でした。 明日はいよいよGRAND CANYONへ発ちます。 Data: Best Western Sedona $155朝食付 セドナから北側へ抜ける場合、89Aを走る事をお勧めします。 川沿いを道路の景観は緑も多く、まるで日本の景色を思わせるようです。 アメリカ在住暦が長ければ長いほど、ちょっと心が休まるドライブになると思います。 |
![]() フェニックスのRAMADAホテルの一室 なまめかしい女性のあえぎ声に目を覚ました。 ???? ん? 何? 時計に目をやるとまだ朝6時半を回ったところ。 ベッドがきしむ音と女性の激しいあえぎ声、そして時折男性のそれも聞こえてくる。 どうやらエアーダクトを伝い隣部屋の声が聞こえるらしい・・・・・ 彼らの営みは僕達が朝食を済ましてチェックアウトをした10:00頃になってもずっと続いていた。 あまりにもオーバーな声と、考えられないほど長時間続くそれは 恐らくポルノ映画のロケかなにかが行われていたのではないかと思うほどでした。 フェニックスの朝はそんな幕開けだった。 ホテルを発った僕達は レンタカーで I17 を北上し始めた。 サボテンしか生えない乾いた景色を2時間かけて走った。 I17を179へ抜けてしばらく走ると、ようやく最初の目的地SEDONAのサインが見えた。 ![]() Data: Phoenix Ramada ホテル ツイン $50(朝食付) 壁が薄く、エアーダクトをつたい隣の物音が筒抜け 部屋は清潔感があってくつろげる。 |
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スカイハーバー国際空港に降り立った僕達はシャトルバス乗り場に向かった。
これから予約しておいたレンタカーを受け取りに行くためだった。 当空港では全てのレンタカーショップの窓口が空港敷地内の一角に全て設置されていて そこまでのトランスポーテーションは無料のシャトルバスが出ている。 ![]() これらのレンタカーショップは24時間営業されていて、とても便利で安心。 今回僕達が借りたのはDODGEのREVENGER ![]() レンタカーショップはDollar 一日$15で諸費用とTAXを入れても4日間で$120と格安 こんなに隣接してはかなり激しい価格競争がおきているのかもしれない。 ただ、価格はその日その日の相場の状況で小刻みに変化するので絶えずチェックすることをお勧めします。 実際僕達も$11の時に予約しなかったために、ある日価格が$30に跳ね上がってしまいました。 その後今回の値段に下がるまで1ヶ月ほど待つ事になりました。 いずれにしても旅行のプランは長期的な見解で行ったほうが得をすることが多いようです。 |
![]() 2008年7月3日 PM9:45 僕達はサンディエゴのリンドバーグ空港を出発した インディペンデンスデー前夜だというのに、 最終便の機内には20人程度しか乗客が無く、閑散としていた。 1時間くらい経過しただろうか、 僕達の行く手を遮っていた雲が、どこかへ消えて無くなった。 遠方にまるで宝石箱をひっくり返したようなキラキラとした景色が開けて、 フェニックスへ到着したというアナウンスが流れた。 高度を下げるのと同時に機体が大きく揺れ動き始める。 街はまるで果てしなく続く光の絨毯のよう、 その最果てのほうでは落雷が白くうねった光を地面に叩きつけていた。 爆発音が飛行機の壁をビリビリと揺らす。 僕達の乗った旅客機はますます大きく揺れ始めた。 するとパイロットは、いったん車輪を下ろした機体を再び天高く持ち上げ始めた。 どうやら風が強すぎて着陸できないでいるらしい。 飛行機はそのまま旋回を続け、着陸できるチャンスを待っていた。 2度目のトライも風に煽られ、さすがにこの段階で僕は少し怖くなった。 隣の乗客が気分が悪くなったらしくペイパーバッグを要求して来た。 そのまま30分ほど空の上をぐるぐる飛び続け こんな激しい揺れは初めて経験したので、 酸素マスクの装着方法もっときちんと聞いておくべきだったなんて考えた。 ようやく3度目のチャレンジで着陸成功! 今日で僕は40歳、この区切りにどうしても尋ねたい場所がある。 その一歩、スカイハーバー国際空港に足を踏み入れた。 Data: 今回のFlight SD→Pheonix Sowth Westan Air line 片道 $60 (3ヶ月前にオンラインで予約した格安チケット) |
![]() 6月最終の日曜日、PETCO PARKの3塁側席で行われた ウェスタンメタルサプライビルの一室を借り切って行われた知人の誕生日パーティーに行ってきました。 誕生日を貸切の部屋で野球観戦なんておつなもんです。 沢山の料理とドリンク飲み放題! 見晴らし最高!!!! 今回はシアトル・マリナーズとの一戦ということで イチロー が! いました。 3塁側からはライトにいるイチローは豆粒のようだったけど、ちょっと興奮気味。 先月来た時にはPADRESの日本人選手井口さんの背中に 『い〜ぐち! い〜ぐち!』 って叫んでいたくせに PADRES側応援席でイチローが活躍するたびに気勢を上げてしまう始末。 広島球場のカープスタンドで他球団を応援しているようなもんですからね、我に返って反省モード(笑) 幸いにもお隣の部屋を貸しきっていらしたのも日本人のグループだったのでおこられずにすみました。 本日のPADRESは惨敗でしたが、イチローが活躍してくれたおかげで、それほど気分は落ち込みませんでした。 ところでこの貸切パーティー会場の御代は、$3000 な〜り!!! 先日座った3塁側の2階席は一人$40で、以前幸運にもタダで味わったバックネット裏のVIP席は一人 $400でしたかから、この貸切料金が高いか安いかは微妙なところ・・・・・・・ |
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1960年先進資本主義諸国は着々と経済成長を続け、中産階級の幅はますます拡大して行った。 また、第二次世界大戦以降起こったベビー・ブームのあおりでアメリカの全人口の50%が25歳以下イギリスでは10%、フランスでは30%以上が20歳以下。 豊かな消費力を持つ若者層が全購買力の50%を占拠した時代。 その反面世界的に資本主義国と社会主義国の緊張が続き、先進国が軒並み大躍進期に入る中、軍需依存体質を強めたアメリカの国際競争力は低下していった。 キューバ危機、ベルリンの壁の設置、ケネディー暗殺、ベトナム戦争介入、マルコムX暗殺、キング牧師暗殺、ソ連のチェコスロバキアへの軍事介入・・・・・・・巨大な権力が、民衆の望む道を阻み、若者達を失望させた。 公民権運動、反戦運動が力強い叫び声となって、【Youth Quake】 と呼ばれる学生運動が世界中で波状的に起こった。 若者は自分で稼いだお金と暇を洋服と音楽に注ぎ若者文化を作り上げた。 自分たちの求めるスタイルを単純でストレートなメッセージと様式で表現するカウンターカルチャーが欧米を中心に爆発的に広がっていった。 この時代に劇的に変化を遂げたのは、若さ=未熟で幼い という考えを 若さこそが全てだ! という価値観に変えてしまった事にある。 これらを背景にファッションとグラッフィックスをミックスしたスィンギング・ロンドンが誕生した。 やがて1967年にはイギリスで妊娠中絶、離婚、ゲイに対する進歩的な法案が提出され革新的な法改正がなされた。 もはや若者達は社会そのものの仕組みを覆してしまうパワーを得たのです。 白人中流階級の若者達の中では、とりわけMods(Moderns)というスタイルが爆発的に流行した。 ヒップスタやビートニックなどの黒人音楽を背景に発展して来た仕立ての良いスーツを着込み、50年代後期に商業音楽としてメロウになりすぎたロックンロールに再びブラック・ビートの息吹を吹き込んだ音楽。 ドラッグとナルシズム、クラブで朝までダンスに興じた。 その当時の旧社会とモダン社会の確執は広がる一方、The Who は彼らの代表作の 【My Generation】 という歌の中で 『ジジイになる前に死んでやる!』 と歌った。 1975年に当時17歳だったポール・ウエラはこの The Whoの名曲を聴いてすっかりモッズのとりこになってしまった。 その後そして1977年には 【In The City】でデヴューを飾る。 何処を見てもパンク一色だった当時のイギリスで登場した彼らは当時パンクムーブメントの一部として受け入れられたが、次第にNeo Mods という新しいムーブメントへと認知されていった。 1979年にはモッズ と ライダース の暴動を描いた 【Quadrophenia】が劇場公開されている。 60年代を駆け抜けたモダニズムの波は多くの若者達の革新的なさまざまな運動によって支えられてきました。 しかし、暗殺、圧力、とことごとくその目論見は権力に弾圧されていきました。 当時世界規模で起こった学生運動はカウンターカルチャー(抵抗文化)が最大ボルテージに達した事の証だったのでしょう。 そして、80年代向けて・・・・・ それでも無視され続けた若者達の生活が再び呼び起こしたカウンターカルチャーの中で単なるファッションと暴力的行動と化していくパンクムーブメントを横目に、はっきりとした主張を持った音楽として生き残っていったのがこのNeo Modsでした。 ♪ この街の中で、あんたに言いたい事はうざるほどあるんだ! だけど、俺があんたに話しかけようとするといつも俺を見下して相手にしない 俺は発言したいんだ! そう、若者のアイデアを伝えたいんだ! だけどあんたはいつだって、そいつを恐怖へと作り変えてしまうんだ。 ♪ そして・・・・・・・・ 彼ら作り上げたミレニアムの時代に、あの頃の叫び声が届いているのだろうか? |
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