|
私の夫はミリタリー働いていました。
彼は世界各国へ送り出され、子供達の学校の関係で私達夫婦はいつも離れ離れで暮らすことが多かった。 25年勤務すればすばらしいベネフィットを受け取る事ができる。 そう信じて夫は寂しい単身生活を堪えて来ました。 やっと、夫にその時がやって来たのは去年の秋の事でした。 彼は52歳でミリタリーを定年退職する日が近く迫っていて、第2の人生に夢と希望を思い描いていました。 しばらくバケーションを取り、故郷のフィリピンを家族で尋ねた時、夫だけは仕事があるので早めの帰国をしました。 早朝に着き、フリーウエーを車で走っている途中、突然心臓発作が彼を襲いました。 そして、帰らぬ人となってしまったのです。 彼女は涙で息を詰まらせ、僕ももう、どうしていいか解らないほどその話を聞きながら何度も瞬きを繰り返しました。 まだ、高校生以下の3人の男の子を残してこの世を去ってしまった夫の無念を思う悲しみと同時に、子供達の将来が自分の手に全てかかってくる責任の重大さに押しつぶされそうになりました。 『これからどうすればいいの?』 母親の助言から、彼が残した生命保険の会社へ連絡を取ることにしました。 一つはミリタリー 旦那さんはライフインシュアレンスの内容には一切サインしていなかったためここでの保険金は一切下りないという事が解りました。 もう一つは保険会社Aの生命保険プログラム。 加入してまだ2年目だった彼の保険契約は、彼の健康状態を偽って加盟したという疑いをかけられ、『その内容に偽りがなかったかどうか調査に入るとので、その調査が終わるまでは保険金が下りません』と、言ったきり現在までも保険金が下りていません。 途方にくれました。幼い息子達の将来が絶望的なものにみえました。 そんなある日、私はとうの昔に忘れていたのですが、彼が自分でかけていたもう一つの生命保険の保険会社Bの方が夫の死を風の噂で知り、私どもに連絡を取ってきました。 『旦那さんはこの内容で保険金が下りるようになっているかどうか調べさせて頂きました。そうしたら、保険金が5千万円下りるようになっていましたのでそれをご報告したくて連絡させていただきました。』 その保険も保険会社Aと同時期に旦那さん自身が契約したものでしたがこちらは調査の必要も無く保険金がおりました。 なんとありがたい事でしょうか・・・。 息子達はこれで大学を諦めなくても済むんです。 |
![]() サンホゼ空港へ着くとインフォメーションセンターへ、VTAの発着駅まではシャトルが無料で連れて行ってくれる。そして広島や長崎の電車に似たVTAに懐かしいな〜って思いながら乗って宿泊先のマリオットホテルがあるコンベンションセンターへ着きました。$1.70
→ more・・
テーマ=米国カリフォルニア州ベイエリア情報 - ジャンル=海外情報 |
![]() サンホゼでアルさんとアリさんと久しぶりに再会して朝食を摂りました。 アリさんお勧めのおいしいパンケーキショップでパンケーキを食べながら、アメリカンイーグルの今回の対応について話していました。 アルさんが、『ああ〜それはひどいね〜!』 て言ってからこんな話をしてくれました。 世界のトップセールスマン・ジグ・ジグラーっていう男がいるんだけど 彼が、まだ大学生の頃、空港で自分が乗る航空便がキャンセルになった事があるんだ。 その知らせを聞いた時搭乗口に立っていた係員の女性に、彼は何て言ったと思う? 『That's fantastic! 』 それはすばらしい! だよ。 『飛行機の運航がキャンセルになるには3つの理由しか無い。 悪天候、機械系のトラブル、テロリズム そんな飛行機に乗らずに済んだんだからなんて幸運な事なんだ!』 これが究極のプラス思考だよ! それで、良かった探しをしてみた。 1、早朝のフライトだったので飛行機の中から朝日が昇るのを見る事が出来た。 2、機内で働くフライトアテンダントの女性で70歳近くだろうと思われる女性が元気に働いていた。ディズニーランドでも高年齢のディキシーバンドが頑張っていた・・・年齢差別が無い事は将来に活力が持てな〜って感じた。 3、サンホゼのマリオットホテルに到着すると、とってもフレンドリーな受付の女の子がいて、『昨日までは忙しかったけれど、今日はとっても暇だから、同じランクでも取って置きの角部屋を用意してあげるわ』と言ってくれた。 4、アルさんとアリさんと朝食ができてこんな良い話を聞かせてもらったうえにとってもおいしい日本風シュークリームまで頂いた。 |
|
こちらは史上最低のチキンゲームです。
先日奥さんの車が当てられた事故をご報告しましたが、 車の修理費3万円の見積もりを郵送して、音沙汰が無いので、こちらから再度催促状を送りました。 『もし、修理費を早急のに送金しない場合は、警察と保険会社へ届出をする準備がある』 そうしたら、先方が仕掛けてきました。 『妹は$300は手持ちが無く払えないと言っている。 $150なら払えるがそれで手を打ってもらえないだろうか?』 これは、免責$500、保険会社に届け出ても、修理費は結局自分達持ちで、両者の保険料が次期更新時に上がる事を知ってか、揺さぶりを掛けてきたらしい。 もちろんその通りで、こちらとしても掛け金をむやみに上げてしまうようなことはしたくないのが本音です。 でも、そんな脅しに屈したくない、面子がぁ〜! なんて言ってると・・・奥さんが 『取りあえずこれで手を打つように見せかけて、半分でも回収しときましょうよ。 被害額を$150 で抑えて置けばこちらも余裕がでるでしょ、長期戦で残りの半分を払うように催促状を送り続ければいんだから。』 『でも、多分半分払ってそれで終わりにしちゃうんじゃないかな?』 『アメリカ人を甘く見てちゃだめよ。責任逃れをしようなんて簡単に考えるから、今は糸を切るような事はしないほうがいいの。残り$150なら先方もいつか観念して払う可能性だってあるかもしれないじゃない。もし払わなくても損害は$150よ。』 やってみようチキンゲーム! |
|
いやはや、アイゼンハワーの外交失敗のしっぺ返しを、取り繕う為に何故これほどまで世界中が恐怖に怯えなければならなかったか・・・・・
面子社会の落とし穴がそこに確かにありました。 もしも次ぎは電話が鳴らなかったら? 数人の男達に世界を壊滅の危機に追いやるほどの意志決定をする権限を渡して良いものなのだろうか? このキューバ危機では冷静沈着に物事を判断できる二人のリーダーが大国にそれぞれ揃っていた事が幸いしました。 特にフルシチョフは最終的に、面子よりも世界中の人々の命の尊さを重視した。 弱腰と言われればそうなのかも知れないが・・・ 彼らの強硬な決断と共に人類滅亡の危機があるとしたら、それは堪えられないほどの重圧だったのだろうと思います。 だからケネディーもまた、それに呼応した。 かくて、 63年に行った演説でソ連友好路線を打ち出した事が決定打となってケネディーは暗殺をされてしまいます。 一方、フルシチョフはキューバ危機での丸腰な態度に、国内での支持を失い書記長の座を追われてしまいます。 『死ぬ覚悟が出来ていた』というカストロはその後も小国の指導者として君臨し続けた。 しかし、大洋の真ん中で、もしくは宇宙の片隅で、自分が独りひっそり死んで世界を変えようというなら問題無いが、彼が引かない根性はあまりにも多くの人類を犠牲にしうるものだった。 もし、アイゼンハワーとスターリン、そして、カストロのカップリングでこの物語が進められていたらゾッとしませんか? 米、キューバ間は国交断絶、経済制裁が長年にわたり行われてきたが、ソヴィエト崩壊以後、ソ連からの援助が無くなった為貧困に苦しんだキューバは積極的にに隣国アメリカへ国交回復のラブコールを送り、カストロは日本にも来日しました。 現在、対キューバ問題ではアメリカ国内でも穏健派と強硬派に意見は分かれていますが、じょじょに経済制裁が緩和されつつあります。 現在、アーリントンにある、ケネディの墓地には永遠の炎が灯り続け、花束が絶える事はない。 一方、ロシアにおいて、花は極めて貴重な物であるにもかかわらず、現在も尚花束の絶えることのない指導者の墓地は、三個所しかないといわれている。レーニン・スターリンそしてフルシチョフである・・・・・・・・・・ きっと花は人々の命の象徴なのでしょう・・・・ |
|
代々大統領はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)と決まっていた。
ケネディーにしてみれば、アメリカ史上唯一のアイルランド系カトリックのリーダーとしての威信がかかっていた。 フルシチョフにとって『ミサイル・ギャップ』は書記長の座を揺るがす弱点だった。 双方とも事の重大さを意識しながらも、引くに引けないチキンゲームが展開された。 危機3日目に入り アメリカに滞在していた、グロムイコがケネディーと対談、 その後、本国に打電している。 「本日、ケネディ大統領と会談、アメリカにはキューバ侵攻の意図無し。世論をキューバからそらすため、反キューバ強硬姿勢は縮小しつつあり。」 もちろんその影では、史上最大の軍事警戒態勢がしかれていた。 グロムイコとの階段が終わった後ケネディーはロバート・ラヴェットからこう助言を受けた。 「第一段階としての空爆は行き過ぎである。封鎖策のほうが賢明だ。」 1962年10月19日 危機4日目 「ソ連人にもキューバ人にも数千人単位の死傷者が出る。深入りしすぎているソ連に、キューバから手を引く時間をあたえてやってもいいだろう。」 ロバート・ケネディーが兄の意向を全体会議で代弁した。 全員一致で海上封鎖が決定した。 1962年10月22日キューバ封鎖が全世界に向け発表された。 キューバに核ミサイル基地が建設され、アメリカとの間にただならぬ緊張が走っている事を全世界が知った瞬間でした。 ソビエト主席フルシチョフは封鎖ですんで良かったと安堵した。 |
|
1960年始め、アイゼンハワー政権は、CIA指揮のもとにキューバ亡命者による解放軍の訓練と武装を許可した。
その後ケネディー大統領就任後この計画は新大統領に引き継ぐ事を余儀なくされたが、大統領は、もともとキューバ侵攻自体反対でした。しかし、この計画を押しつぶす権限はまだ彼には無く、米軍を直接、公然とキューバに出動させないことを繰り返し主張するにとどまった。 ピックス湾事件 亡命解放軍による戦況は圧倒的なソ連のバックアップを得てキューバ側が圧倒。覆面B29が援護機としてニカラガから出動したが、あっけなく撃沈された・・・ キューバ軍の勝利に終わる その後、B29の援護機がアメリカ政府から出されたものという事実が発覚して、アメリカ政府軍介入が世界中に知られるところとなった。 実際には、まだ就任したばかりのアメリカ史上最年少の大統領には政府高官やCIAをたくみに操るパワーがまだ備わっていなかったが為に起こった事件でしたが・・・ ケネディーはこの時に記者会見の席で 「諺に、勝利は百人の生みの親を持つが、敗北は、ひとりの孤児しか持たないという。私は、政府の責任者であり、それは万事明白である。」 と自らの責任の所在を認めた。 |
|
1945年2月、第2次世界大戦連合国軍の勝利が濃厚になってきた頃、ヤルタ会談でルーズベルト、チャーチル、スターリンの3者が会談した。
共産主義国に友好的だったルーズベルト路線は、激しい世論の攻撃の的となっていき。ルーズベルトにとっても共産主義は眉唾ものだったが、ドイツから欧州を守った英雄として圧倒的な支持を持っていたソビエトの指導者スターリンを無視など出来なかった事が本音だった。 やがて、世界最強の兵器『原始爆弾』が開発されそのパワーバランスは一挙にアメリカへ傾いた。 トルーマン大統領就任後、どんどん反共産党主義へ傾いていく。 この時の議題の一つだったポーランド問題をめぐるアメリカとソ連の対立が顕在化、ソ連の対日参戦問題も両大国に深い溝を作り上げた。 戦後処理はほぼアメリカが主導権を握る形で進んでいった。 そして、冷戦時代に突入していった・・・ その後ソ連は宇宙衛星開発計画を隠れ蓑に大陸弾道ミサイルの開発を進めていた。1957年10月人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げが成功した。 この事実は、表向きにはソビエトの宇宙開発事業がアメリカよりも一歩先を行ったという内容ですが、衛星打ち上げ成功の事実でソビエトがアメリカにとって脅威の国に返り咲いたという事だったのです。 アメリカは1959年末、イタリアに30基・トルコに15基の射程距離2400キロのジュピターミサイルを配備したのです。 ミサイルギャップ論争をあおって大統領に就任したのはケネディーでした。 1959年1月、全米が対ソミサイル論争に明け暮れたいた時、カリブ海に浮かぶ島キューバに政変が起ろうとしていた。 |
![]() 彼女は5年前に日本を離れ、語学留学の後コミュニティーカレッジへと進んだ。 渡米の目的は英文科を卒業して、旅行会社に勤務していたが 海外添乗員にキャリアアップしたいと考えたからだった。 語学学校を終えて、大学の進路もTourismの専攻を希望していた矢先 あの悲劇は起こってしまった。 同時多発テロ 多くの航空会社の経営が破綻し始め、旅行業界に暗い影が落ち始めていました。 そんな中、専攻を希望していた学科の講義が再開される予定も立たず、時間だけが過ぎていき、あたりさわらずの科目を消化するのみの日々が続きました。 いよいよ、彼女に決断の時が迫りました。このままでいてもいっこうに状況は変わらない。 当時から交際を続けていた彼の選択がコンピューターグラッフィックだったので、彼女は思い切ってそちらの科へ転進する事に決めました。 理由は、彼が全部持っているから、一から何もそろえる必要が無いからだったそうですが・・・・ 彼女の次なる目標は、『アメリカでH1ビザを取得して働く』という事になりました。 就職した先で頑張って認められ、ビザ取得申請のスポンサーになってもらい、H1ビザが取得できる事になるとは、本当に人の運命はどう転ぶかわかりませんね。 当時を振り返って彼女はこう言います。 『不安だったけど、二人だったから乗り越えられたのかもしれない』 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 『強く願えば、願いは叶うよね』 アメリカに来て出会う日本人のほとんどがそう言います。 言い換えれば、望まないものは手に入らないという事に気付いて、頑張った経験で得たものがあるからでしょう。 |
|
俺、今休職中なんだ。
へ〜どうしたの? もともと看護師だったんだけど、腰を壊しちゃってね・・・ それで、休養して職場復帰したのだけれど、病院はギリギリの人員構成でやってるから、一日12時間の労働はやっぱりキツイくて、また再発しちゃったんだ。 (こちらの看護師さんはかなり高給職として有名です。トレーナーレベルになると、年俸が800万円にもなる方がいらっしゃるぐらいなので、その為の経費節約が人員削減となっているので、日本の看護師不足の問題とは少し性質が異なるようです。) 今度は本格的に働けなくなって、病院のコネでケアマネージメントを紹介されたんだ。 取り立てて資格みたいなものは無いんだけど、経験者を求むって言うところが多くてね、だから経験の無い俺が紹介を受けて入り込んだことはとってもラッキーだった・・・。 一通り訓練を受けてから現場に着いた時、 『あれ?』って思った。 俺が訓練して学んだ事と違う、ましてや患者の病気や怪我の介護を一番に考えて、そこに使命感を抱いて働く看護師の内容とは180度その仕事内容が違っていたから、ビックリしたんだ。 アメリカはナショナルインシュアレンス(国保や社保)が無いだろう、だから、一般の保険会社が病院をネットワークでつないで医療保険商品を組み立てているんだ。 だから、病院と医療保険との契約関係と、患者と医療保険の契約関係の内容によって、患者や病室、そして処置に対するコントロールをするのが俺の仕事っていう事だったんだ。そこに行政も関わってくる。 (現在シュワルツネッガー州知事が、前州知事が電力供給コストの問題で作り出した赤字を一般の増税なしにカバーする為に、医療の現場、教育機関等への補助金削減政策を勧めている) 保険会社はできるだけ一人の患者に対する支出を減らしたい。病院は病院で病室のベットを早く空けて次ぎの患者を入れたい。 だから、保険会社は『A患者はもう歩けるか?とっくに入院期間を超過しているよ。B患者が次に待ってるから』っていって、 まだ不自由なのに患者を追い出せっていうんだ。 医者は医者で、病院側が保険会社が保障しない部分は面倒を見たがらないからね、いつも保険会社と医者、それと患者の間に板ばさみになって本当にストレスの多い仕事だった。 俺はそんなに割り切ってドライになんてなれないんだ! だって看護師だったころの俺は本当に患者が良くなる事だけを願って仕事していたんだぜ!。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 昔、広島の大学病院の麻酔科のお医者様が言っていた。 麻酔の注射一本が5万円以上するんだ。 それで、注射しても患者が苦しんでいる時は もう一本打ってあげたいって思うわけ だけど独りの患者にこの症状で使ってもいいリミットも決まっててね・・・ そのもう一本がどこからでるかっていうと、 俺のポケットマネーからさ。 そんなもんだから大学病院の安月給なんて、あっという間にぶっ飛んじゃってね。 生活費を作り出す為にバイトまでしていた。 仕事をするという事は、お金のためだけじゃなく・・・ 人の役にたっているって思えなきゃやりきれないからね・・・ 医者として、そこは本当にジレンマを感じるところなんだ。 って言っていたのを思い出した。 『僕が関る事で、関った人達が幸せになって行くのがわかるから、夜もぐっすり眠れるんです。』 て言ったエドの言葉を思い出した。 |
|
本日は、
れいらのサンディエゴ生活&カルフォルニアワイン っていうとってもサンディエゴ生活にお役立ちな生活ショッピングナビゲーションブログを運営されているれいらさん(ハンドルネーム)に始めてお目にかかりました。 リンクを貼らせていただいた時から一度ぜひお会いしたい!っと思っていたのですが、やっと念願が叶いました。 僕の身勝手な意見を言いっぱなしっていうようなブログに比較すると、ものすごく整理されていて、生活に密着した情報を、金額や、割引パーセンテージに至るまで事細かに書き綴っている、彼女は理数系の出身だと聞いていたので、ちょっとかしこまって出向いたのですが。その柔らかなお人柄にすぐ崩されてしまいました。 さりなと一緒にうかがったれいら邸には、彼女のブログにもよく登場するエリックさん(ハンドルネーム)も帰宅しておられて、初顔合わせとなりました。 何を隠そう、僕はエリックさんを勝手にアメリカ人だと思っていました。でも、僕と同じ日本男児でした。 彼の趣味でエッシャーのあの有名な『滝の絵』が置いてあったのが本当に共感できました。 実はcoolcutsもエッシャーの絵は大好き。どうやらオランダ人画家のあの科学的な視点で書いた芸術が好きみたい。 実はれいらさんの名前の由来がエリッククラプトンの『レイラ』っからの引用だという事から、その旦那さんはエリックっていう事になったらしい。 最近まで知らなかったのですが、れいらさんはもう一つすごいお役だちサイトを運営されているんです。 海外ショッピング、通販、Goods情報を満載した Convenient websites in USA (使えるアメリカのサイト達) というサイトです。この方のブランドの情報量はものすごい! 海外通販やブランドGOODS、コスメに興味がある方、ぜひ覗いてみてくださいね。 れいらさん今日はうちの子がお騒がしました。m(_ _)m |
|
戦後に生まれた若者達も、その親達ももともとはフランスとソ連の小競り合いに過ぎなかったベトナム戦争に反対だった。
一日も早く終結するのを願っていた。 音楽や文化が人種の壁を打ち破ろうとしていた。 世論の高まり、国民の願いを聞き入れたケネディーは、 『世界は一つ、地球は宇宙の中の一惑星に過ぎない。 だから争いをやめて、広大な宇宙へ漕ぎ出そう!』 そう国民に語りかけた・・・ 彼は多くの民族、の生活を変える希望の光だった。 キューバとの緊張が高まる中で彼は核兵器全面戦争の危機から国民を救った。 『ケネディーは国民のアイドルだから、彼には指一本触れるな』 イライジャ・モハメドはマルコムに言った。 奴隷解放の後でもアフリカンアメリカンが得られない公民権の為に戦った、 ケネディーはリンカーンの再来だった。 「人民の人民による人民のための政治」 を願って止まなかった国民のリーダーが残した言葉は 「国家があなたのために何ができるかでなく、国家のためにあなたが何をできるかを問うていただきたい。」 ケネディー暗殺の日は、国民の声と時代の流れに耳を傾けないアメリカがにアメリカ国民が失望した日でもありました。 誰の仕業であろうと、正義が踏みにじられた事には変わりが無い。 アメリカの裏切りを知った若者達は走り始めた! 今自分達が国家のために出来る事をしなければこの国が危ない! 彼らはそう感じていた・・・ もう誰も若者達を止められなかった・・・! カウンターカルチャーの到来 カウンターカルチャー "Counterculture" 主流の(体制的な)生き方に対抗する価値観や様式をもった文化のこと。 狭義では、1960年代に盛んだったヒッピー文化を指す。 |
|
サンディエゴ在住ポップアーティストのFujikoさんの作品紹介をさせていただきます。
![]() The World Of FUJIKO ISOMURA ↑クリックして他の作品も鑑賞してみてください。 日本の東京で生まれ育った私にとって、日本社会で安全な暮らしを手に入れるために必要な事は『その他大勢にうまく溶け込む事』だったので、『個性的な女性像』は必ずしも必要なものではありませんでした。 当時渡米してからの私は、『私』という存在を以前よりも、もっと明確に認識しはじめました。 この経験を通して、私は私自身の人生を形作るアイデアを発展させ始めたのです。 『人生の幸福と協調性は、他者との違いを認め合い良心と良識を分かち合う事』 日々の生活の中で、気付かないうちに私達は互いに影響し合って生活しています。それこそが、私のアートワークの真髄なのです。 |
|
最近知り合ったある男の話・・・
1990年代初頭、にわかに湧き上がったコンピューター産業に世界中が足並みを揃えて一目散に走り進んでいた。 投資家達はこぞってIT関連事業を立ち上げ、当時のリクルートの中でコンピューター関連のエンジニア達は花形産業の未来を担う先駆者という事で、どの企業からも引っ張りだこだった。 R氏はそんなコンピューターソフト業界がこれから目覚しい発展を遂げる打ち上げ台の頂上付近で、ソフト開発エンジニアの仕事についた。 彼の大卒初任給は 年俸$120,000(約1200万円) これが彼にとってスタート地点であって、まさかピークの給料になるとは思ってもみなかった・・・・
→ more・・
テーマ=資格目指してみますか。 - ジャンル=就職・お仕事 |















