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それで、私はまた国境を越えてアメリカへ移住したの。
わずか1年のティファナ生活は、私の精神をボロボロにしてしまった。 今度はおばの知人の家で厄介になる事になったんだけど、私の身の上話を少しでも聞き知っていたそのご家族は ある条件を提示してきたの。 彼らはキリスト教会でいろいろな世話役をする事が多いほど、厳格なキリスト教信者だったのですが、 毎週3回のミサに必ず通う事。 これが守れなければ家を出てもらう、という内容でした。 私はもう21歳、一人暮らしをしてもおかしくは無い年齢でしたが、周囲の誰もが私の精神状態を心配していたし、私自身もどこまで正気を保てるか不安たったの。 でも、週三回のミサへ通い始めて、色々な新しい友人関係のつながりが出来てきました。 そこに来る若い人たちとの交流も、今までの汚れた友人関係とはまるで違って、 酒も、薬も、セックスもまるでその話題に登っても来ない。 荒んだ生活を送って来た私にはとっても新鮮な感覚でした。 そんなある日、教会の男の子の一人から交際を申し込まれたの。 彼は今までの誰よりも私の事を大切にしてくれて、とっても幸せな気持ちに包まれたわ。 でも、いつもいつも、もし、彼が私の過去を知ってしまったら? 私の本当の姿を知ってしまったら? そんな不安がいつもいつも定期的に襲って来ました。 そんなある日の事 私の23歳の誕生日 彼は朝早くから中華料理を買いに行くと言って、家を出てからなかなか帰って来ませんでした。 私の誕生日の日にこんなに待たせるなんて、もしかしたら心変わりでもしたのかしら? それとも、私の過去の事を知ってしまったのかしら? 次々と湧いて出て来る不安にさいなまれながら彼を家でじっと待っていると。 『待たせてごめん。』 と、言いながら、彼はお持ち帰りの中華料理をテーブルに広げ始めました。 不安な気持ちはひと時に晴れて、楽しく中華料理を一緒に食べたのよ。 『あ〜あ、お腹いっぱい。』 『フォーチュンクッキーが残ってるよ。』 『もう、食べられないよ〜。』 『だめだよ、フォーチュンクッキーはちゃんと割って、おみくじを見ないと・・・・・』 『わかったわよ、じゃあ食べるわよ・・・・・』 クッキーを割って中のおみくじを取り出したとたん、 感激で涙が出て止まらなくなってしまったの。 そこにはね。。。 『 Will you marry me? 』って書いてあったの。 もちろん『Yes』って言ったわ。 その夜、おばさんが誕生日パーティーを開いてくれたんだけどね。 既に彼が朝のうちに挨拶に来た事を知らされたの。 彼は私の婚約者、、、、 どうしよう、、、、 あの事を伝えなきゃ。。。。。。。 ある日意を決して、告白したの。 『私の過去の事、私が子供を下ろした事。』 そうしたらね、彼は何て言ったと思う? 『C、神はもう君の事を許しているんだよ。どうして僕が君を許さなけりゃならない理由があるんだい?』 もう、私は迷わない。 もう、私は二度と。。。。。 彼の愛に包まれてほんとうに幸せな日々をおくってるの。 ね、なかなかなハッピーエンディングでしょ? わ〜お、それって君の体験なの? ええ、私、それから教会の古いシステムでは流産に対するディスカッションが行われるどころか、それ自体が禁止されているからね。 私は同じような境遇を持った人を集めてフォーラムを開いているのよ。 |
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家を出た私は、国境を超えてメキシコのティファナに住むおばあさんの家へと帰ったの。
アメリカへ住んでいた頃は、おばが毎週の日曜日事に教会へ通わせて、心のバランスを整える事をかかさなかったけれど、ティファナではね。。。。 いつもジャンキーで酔っぱらいの母親とつるんで、夜の界隈を飲み歩いたの。 あれが私の今までの一生で一番荒んだ次期だったわ。 母親は頭に血が上ると何をしでかすか全く解らない人で、それである日の事 母が、『私の彼氏はどうやら他の女と会ってるらしいのよ。』って言いだしてね。 二人で飲み歩いて、ぐでんぐでんに酔っぱらっているのに、車を飛ばして国境まで行ったの。 そして彼氏の車が国境を超えようとして列に並んでいるのを見つけてね。 車を飛び出して行ったかと思うと、助手席に座っていた女に殴る蹴るの暴行を働いたの。 良いボケた私が目を開けて目の当たりにしたのは、女性が血みどろでぐちゃぐちゃにされる姿。 そんな荒んだ生活の中でね、 やがてボーイフレンドが出来たんだけど、もう彼もジャンキーでまともじゃなかった。 それから私のお腹の中に赤ちゃんが出来てしまったのね。 家族にの彼にも半ば強制的に下ろさせられたの。 悲しみに打ちひしがれた私は正気を失って行ったの。。。。。。。 続く....... |
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サニーシードロのおばさんとおじさんはそんな事件があってからも、いとこ達に混じって私をちゃんと育ててくれたわ。
彼らにとってもちょっといとこ達より年上の私は、子供達のいい面倒見役だった。 でも二人はいつも喧嘩ばかりしてた。 いったん喧嘩がはじまるとね、みんな他の部屋に逃げ込んで、嵐が過ぎ去るのをじっと待ってたわ。 警察が突然上がり込んで来ておじさんを逮捕したの。 おじさんは仕事で違法行為をしていたらしく、そのまま刑務所に入れられてしまったわ。 一家の大黒柱を失ったおばさんは、私を他のおばさんに預けなければならなくなったの。 『そう、これが私の6歳までの生い立ちよ。』 ずいぶんと濃いね〜、、、、 しかもまだ6歳でそのボリューム。 もうこれ以上は無いでしょう〜? 『まだ、あるわよ。これはほんの触りの部分』 Cお客さんよ〜!! 『は〜い。』『じゃあ、後でね。』 他のおばさんの家に預けられてしばらくの間、(何て幸せな日々なんだろう〜?)って思ってたわ。 おじさんも他の子供とおなじようにアイスクリームを買い与えてくれたりして、本当に(生まれて初めて父親と呼べる存在に出会った。)そんな幸福感に包まれる日々だったわ。 でもある日、、、、、私が11歳の誕生日を終えた後の事。 状況が変化し始めたの。 おじさんの私を見る目がまるで変わってしまって。 そしてあの日・・・・・・ 学校から帰って来て、おばさんも他の子供もまだ出かけていたから私一人でお留守番していたの。 そこへ、おじさんが早めに帰宅して家で二人っきりになったのね。 おじさんが私の手を握って来て、、、、、、、 私はその日、性的虐待を受けたの。 おじさんはその日のうちに国境を越えてティファナへ逃げてしまって、 その事を知った実の母は 『マフィアを呼んで奴を殺させる!!』って騒いでるし。 おばあちゃん達はそれを止めるのに一苦労だったみたい。 その後おじさんとおばさんは離婚の調停を終えて、私たちはおばさんとそのまま暮らしたの。 私は性的虐待の傷が癒えないまま、自暴自棄になって何度も自殺未遂を繰り返した。 手首を切ったり、睡眠薬を飲んだり・・・・・ おばさんは過剰に私を心配するようになって、私をひどく束縛するようになったのね。 ある日学校から帰って来ると、手を後ろにまわしている私に向かって 『あんた、ナイフを持ってるんでしょう! こっちに渡しなさい!』って 学校以外では、私はおばさんと一緒でなければ出かけられなかったの。 私が16歳になった時、おばさんが結婚をする事になってね、 私は性的虐待のトラウマから、赤の他人の男性が同じ屋根の下で暮らす事にとても拒絶感を感じたの。 だから私は家出をしたの。 続く。。。。 |
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『そう、これが私の6歳までの生い立ちよ。』
そういって笑顔を見せるのは20代前半の若い女の子。 白人系のメキシコ人で目がクリッとして愛らしい・・・・・ まだその童顔とも言える顔立ちの女の子が話して聞かせる身の上話は6歳までの内容でもかなり重い。 かなりヘヴィーだね。。。 『そうね、メキシカンはドラマティックでしょ?』 最近働き始めた女の子C、彼女とバックルームで一緒になるたびに、彼女の身の上話を聞く習慣ができてしまった。 まるで紙芝居をせがむ子供のような僕に、彼女の話は休憩時間の細切れで続いた・・・・・・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私の母はジャンキーで、子供を育てる能力が無かったからお婆ちゃんに預けられて育ったの。 私のお父さんはLAで拳銃に撃たれて死んじゃった。 最初は、交通事故で死んだんだって聞かされてたけど・・・・ 免許を取得する年頃が近くなった私に、母が『貴方が運転を怖がったらいけないから』って教えてくれたの。 ドラックの売買に関わっていたらしいわ。 あっ、どこまで話したっけ? そうそう、おばあちゃんに預けられて育ったってところね。 それでね、おばあちゃんの家には二人のおじさんが住んでいたんだけど、母の弟達ね。 一人はとっても優しくて、もう一人は凄く意地悪。 弟がいつもいびられて、その都度もうひとりが守ってくれようとして、二人のおじさんはいつも喧嘩ばかりしてたわ。 それでも、おじさんの弟に対するいじめはどんどんエスカレートしていってね、もう一人おおじさんがいない時に弟を守ってやれるのは私だけだったの。 そうしたら、そのうちおじさんの怒りの矛先が私のほうに向くようになってね。 私に対するいじめが毎日のように続くようになったの。 毎日、アザだらけになる私を見て、お婆ちゃんは国境を超えたアメリカのサンディエゴで暮らすおばちゃんの家に預ける事にしたの。 私がいなくなったお婆ちゃんの家に、母親が 『私の子供を返せ!』って包丁を持って怒鳴り込んで来たって、後で聞かされたわ。 それだけじゃないのよ。 意地悪なおじさんがある日腹いせにね、サンディエゴのおばさんの家に現れて、 留守中家の前に停めてあったおばさんの車に火をつけたの! 私はおばさんの家から道を挟んだ向かいの小学校に通っていたんだけど、サニーシードロのね。 教室から、家が見えるの。 黒煙がモクモクと上がってね、消防車に、救急車に、パトカーが次々に到着するのが見えたわ。 続く・・・・・ |
![]() 今年もやって参りましたイースター!!! もう何年目でしょうか? 2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年、そして今年2012年 え〜!!! アメリカに来てから7回目のイースター!!1 つまり7回目の春。 どうりでさりながこんなに大きくなっているわけだ。 もう、エッグハントをしている姿も昔のチョコチョコした動きがありませn。 もっと的確に一つ、また、一つ、落ち着いて無駄の無い動きで広い集めて行きます。 ![]() なんか嬉しいような、寂しいような・・・・・ このブログを長い事ご覧頂いている方はお気づきでしょうが、僕はその間もう一度も日本に帰っていません。 おじいちゃんおばあちゃん、しばらく見ない間に、さりなはすっかり成長してしまいました。 できるだけ早く家に帰れるようにがんばりますので、しばしお待ちを・・・・・ ところで今回のイースターの写真は原点に戻って、シグマの18−125mmDC f3.5-6.5Dを使って 撮影しました。 光が十分に回っている環境での AFの正確さと画像のシャープさ、そして色合い。 他の所有レンズと比較してやっぱり僕好みです。 コイツとD70でバンバン写真を撮っていた頃がとっても懐かしくなりました。 D2xsとの組み合わせではやはりちょっとナチュラルよりな色出しなので、どうしても色をいじってしまいます。 |
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昨日ね、私の姪っ子が子供を生んだのよ。
可愛い女の子。 時代が変わったのね・・・・・ 旦那さんが分娩の付き添いをしたかったんだけど、 あいにくね、アフガニスタンで軍事活動中だったの。 だから、Skypeよ。 Skype。 Skypeでずっと分娩室の様子を相互通信しながら、ビデオチャットで付き添いしたんだって・・・・ 昔だったら考えられなかった事だけど、テクノロジーってそんな事にも役に立つのね~。 男の子か女の子かも知らなかったらしいから、生まれて来た時にはとっても感動したらしいわ、お父さんがね。 『ところで、自然分娩の様子をカメラで映していたんですか?』 いや、帝王切開だったらしいわ。 『うわっ! 僕だったら絶対最後まで見れませんよ。』 そう言えばそうよね~。 ちょっと、見るのには忍耐力がいりそうよね。 |
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ティファナに日系企業が集まってくれる従って、アメリカの国境を超えてサンディエゴへ出向く用事が増えて来た。
そんなおり、良く訪れるようになっていた日本食料亭の主人に気に入られ、彼らの娘を紹介されたんです。 しばらくして結婚、ラスベガスにドライブして$25でね。 貧乏だったね~、、、あの頃は・・・・・ 貯金は$5000あったけど、 その頃の僕は独立したいという想いにかられるようになっていたから、その運転資金の為にとっておいた。 自分の会社を立ち上げる為に$120,000の貯金が必要だった。 いつ会社がポシャっても従業員の生活の保障が出来るようにしておきたかったから。 そのために、僕と奥さんの生活は切り詰めていた。 朝早く家を出かけて、海に仕掛けをとりつけて、帰宅前に魚を捕獲して、家で料理する毎日。 それから、何処かで住宅説明会なんてのがあると、そのつど食事が振る舞われたりしたんだけど、二人で出かけて行って、ただで食事をしたりもした。 楽しかった~!!! あの頃が一番楽しかったような気がするよ。 お金は無かったけどね。 『80年代という時代はもう、世の中の仕組みがしっかりしていた頃だから、その状況で楽しめるのはやっぱり普通の人では無いですね。』 普通だよ~、身の丈以内の生活をして来ただけなんだから。 それに夫婦二人で共有する夢があった。 小さい工場だったよ、工場の中のほんの一角を借りてね。 7人で始めた。 利益なんてそんなに簡単には上がらなかったから 僕の給料も取れたり取れなかったりでね。 でも従業員には約束した報酬はきちっと払っていたし 売り上げが下がると、まず自分の給料から差し引かせた。 長いおつきあいで取引の多い顧客には利益の出る範囲内で仕事単価を値引きしていった。 それでも仕事の品質管理は怠らずね、やりましたよ。 起業を考える時に一番大切なのは何だと思いますか? 『儲かる仕組みを作る事ですか?』 『あんまり物質的な内容ばかりを考え過ぎるのは良く無いですね。』 吸引力です。 貴方自身が人を惹き付ける魅力を持つという事。 そうすれば、必ずその力が貴方を成功に導いてくれるはずです。 お得意様に対して単価を落としてでもしっかりと丁寧な仕事を重ねた結果 取引一つあたりの利益はとても小さくなった。 だから私の会社はそれほど利益率の良い会社運営では無かったんです。 経営の教科書ではぜったいにタブ~な内容なのかもしれませんね。 でもね、不思議な事が起こるんですよ~。 ある時を境に急激に売り上高が伸びて来て、私にも想像できなかった年商を上げる会社に成長したんです。 私が貴方に成功の秘訣として一つ言える事はですね。 貴方が人を惹き付ける ”気” を発するように訓練する事です。 貴方がただ部屋の中にいるだけで、その場が明るくなったり。 皆が生き生き働けるようになったり。 それは ”エゴ” の中や ”物質的な欲望” の中には生まれて来ない事なのです。 僕はもし、売り上げが落ちればいつでも自分の生活レベルをダウンサイズして収入がゼロの状態でもサバイバルできるように変化させる事が可能です。 妻もそれをそばでしっかりサポートしてくれます。 だから、最初の会社の立ち上げの時も、不況に入った後でも、”不動心” でいられました。 一緒に仕事をしてきた仲間に対しての退職金の用意だけはきっちり出来てましたからね。 ”いつでもきれいに辞められる” その安心感が、その都度冷静な判断を僕にさせてくれました。 昨年、25年続けた会社をNo.2 に譲ってリタイヤしました。 もちろんタダです。 彼の献身的な仕事ぶりの感謝の気持ちとして、彼専用の口座を開いて少しずつ貯金しておいたお金が$100,000にもなったので、それを運用資金として与えてやりました。 従業員全員に退職金もきっちり支払って身を引きました。 『すごいですね~、せっかく作った会社を売ってお金儲けをしようとは思わなかったんですか? しかも退職金まで・・・・。』 彼が引き継いだ後、一ヶ月で会社が潰れてしまうと働いている人が路頭に迷ってしまうでしょ。 僕にとって、仕事はご飯を食べる手段にしか過ぎません。 だから、仕事が僕の生活を乗っ取ってしまって、僕の生活が仕事の為にだけにまわるなんて事もありませんでした。 日本で仕事をしていた時でも、周りの人間が『会社に命を捧げる!』なんていうのを横目に、僕は一度だってそんな事は考えた事がありません。 だから、自分が作った会社にしても、”執着” というのが無いんですよ。 でも、僕のハーレーは違いますよ! あれは誰にもやれません。 当たり前だのクラッカーです。 ”夢” や ”ゴール” を持つ事は大切ですよ。 でも、そのゴーサインを出すのは貴方自身の存在価値が自然に発動するものです。 貴方には決定権はありません。 貴方が自分自身を磨き、その力を蓄える努力をすれば 貴方の吸引力が自然と物事を前に進めてくれます。 そして、その吸引力を作る一番感じんな事は。 生活を質素にする事です。 貴方の価値は、貴方が身につける物が決定するのではありません。 貴方自身の魅力が周囲の人に認められた時に、初めて鏡写しに帰って来るものです。 だから、身の丈に見合った生活を心がけをする事。 その習慣はビジネスファイナンシングの舵取りにも現れて来ますからね。 入って来る以上に使うような社長なら、やっぱり会社も赤字経営確実。 僕は25年間の会社経営の中で一度もローンを使った事が無いんですよ。 無けりゃ無いようにやる。 それだけの事です。 勝負は殴って来てから防御を考えると、始まる前から既に負けです。 相手を包み込み、道を開く。 そう心がけて生きてみて下さい、きっと良い事がありますよ。 |
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ある日本人ビジネスマンのメキシコ奮闘記 1
2 3 メキシコティファナ政府から約束された毎月に報酬は$1500だった。 しかし、政府といってもメキシコはいい加減なものでね。 予算を最初の半年でほとんど使い切ってしまっていたんだ。 だから、その中から実際に僕に支払われた月収はたったの$250。 これは困った。 朝昼の食事を抜いたとしても、晩飯に使えるのはたったの$5。 家賃は月$100以上はかけられない。 70年代後期のティファナと言っても、家賃一日$30、 レストランだって、ディナーが$5ではまず食べられない。 とりあえず、フロントに交渉に行く事にした。 『一ヶ月$100で長期宿泊をさせてくれないか?』 当時モーテルの部屋をまとめ借りする人なんていなかったでしょ? だから、簡単に受け入れてくれた。 さて、次は食事だ。 モーテルの裏手にはレストランがあったんだけど、僕の部屋から厨房の入り口が近かったせいもあって、 厨房のおばちゃんと顔見知りに鳴った。 『一日$5で晩ご飯を用意してくれないか?』 『お易い御用よ!』 毎晩厨房で食事をするようになった。 内容はとても$5で食べられるようなものでは無くて レストランオーナーとも親しくなって、彼らの家族同様のものを食べさせてくれた。 $250しか給料がないなら、それでどうにかするしか無いでしょう? そう思ったら待たない・・・・・ すぐに手を打つべきなんだ。 家賃は給料の1/3、そのスケールを満たしてくれる条件の物件を探すか? それともそのスケールに自分の所得を持って行けるように、副収入を探して来るかね。 僕の場合は食費を切り詰めてバランスを整えた。 ある時、ティファナの州知事が日本を訪問して、大阪へ出張で行った。 帰って来てから彼は、 『あちらで面会をした要人の中に、お前のお父さんがいたよ。君の話はしなかったけどね。』と、言った。 日本企業のメキシコ誘致計画が着々と進んでいた。。。。。 |
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スペイン語が話せる日本人がいる。
その肩書きで十分だった。 だって当時は多くの日本企業がメキシコ進出を検討していたし そのおかげで、大手日本企業が僕にコンタクトを取って来て働かないか?ってね。 でも、僕はいまさら日本企業に勤めるつもりは無かった。 親父の影響力から逃れて、大手日本企業を退職してここへやってきたんだからね。 就職の誘いをすべて断って、ゴロゴロ寝てばかりいる僕に、 世話をやいてくれていた家の母さんが、カンカンに怒っていたよ。 今考えたら本当に僕の事を心配してくれていたんだな、メキシコの母ちゃんは。 そんなある日、ティファナの州知事から直接僕に電話が架かってきた。 『あんた!しゅっ州知事から電話がかかってるよ!』 『なんで僕に州知事なんかが電話してくるんだい?』 『知らないわよ、でも間違いないんだから、早く!早くっ!出なさい!!!』 大学で武道を教えていたときの学長さんがティファナの州知事と友達でね、 日本とメキシコの間で企業誘致事業を手伝ってくれる日本人を探していたらしい。 『誰かスペイン語が堪能な日本人はいないか?』 それで白羽の矢が当たったってわけ。 『これや!』って思ったね。ちょうど奥さんを見つけたときとおんなじ感覚だったよ。 親父の影響力の無いところで、日本とメキシコの両国の架け橋として役に立てる。 |
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ある日、ホテルのロビーでくつろいでいたらね
チンピラがたかりにやってきた。 武道家の僕は、腕っ節にはちょっと自信があるからね。 『面白い、ちょうどむしゃくしゃしてたんだ。やってやろうじゃないか!』って 構えると、相手が僕の『気』を読み取ったのか 『おい、空手か?』 って聞いてきた。 『まあ、そんなもんだ。』 それからものすごく愛想が良くなってね。 タクシーを呼んで町中をあちこち案内してくれたんだ。 ホテルに帰ってきて、『今日はありがとう、金を払うよ。』って言うとね 『いいよ、いいよ、また明日ここで会おう』って言うんだ。 そいつに世話してもらって住むところを借りてね。 それからはスペイン語の猛勉強さ。 話せなきゃ生きていけないからね。 毎日飯を食う暇も寝る間も惜しんで夜中の3時4時まで勉強したんだ。 、 6ヵ月後、そろそろ生活費がつきそうな頃にスペイン語はペラペラになっていたよ 仕事が無くて食えないだろう。 僕は過酷な猛勉強と、粗末な食事でガリガリになっていた。 その頃ちょうどボランティアで武道を教えていたんだけど、その時の教え子が見かねてね 母親に頼んで、タダで部屋を提供してくれて食事も作ってくれて、洗濯までしてくれた。 |
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なぜメキシコへ行こうと思ったんですか?
僕の父はね、日本でかなり名の知れた計算機メーカーを経営したから 本拠地の関西の財界人だけではなく、中央の政治家まで影響力を持っていたんだよね。 だからどこで何をするにしても親父の手が届いてしまうからね。 そんな将来の約束された人生なんてつまんないって思ってね。 親父のコネで勤めた大企業を退職して、旅に出よう!っておもったのさ。 親父の影響力の届かないところで自分の力で生きてみたい! やるなら世界一の大都市か、発展途上の町か? 最初はNYに行こうかと思ったけど、結局メキシコにやって来た。 『言葉は大丈夫だったんですか?』 30年前のメキシコの情報なんて、テレビでもやってないし書いてある本も、日本では何一つ無かったから。 メキシコがスペイン語を話す国だなんて解ってなかった。 だから大変だったよ、最初は。 ちょうど僕が乗っていた飛行機がメキシコの上空へたどり着いた時には、降り続いた大雨のせいで 飛行機は2時間遅れていた やっとの事着陸してね、予約してあったホテルへ行ってみると、誰も英語が話せない。 名前を伝えるのが精一杯。 でも返事は 『今日はいっぱいで空き部屋は無い。』って追い返された。 どしゃぶりの雨の中、そりゃ~もう途方に暮れてね。 だけどもう一度チャレンジする事にした。 予約しておいた部屋の予約表をバックパックから取り出してね 突きつけてやった。 相手も、よほど行く場が無いのだろうとかわいそうに思ったんだろうね。 たったひとつだけ空いていた部屋を僕にあてがってくれたんだ。 プレジデントスイート! そりゃものすごい部屋でね。 ひとつのスイートに2ベッドルームが二つ。 いくらお坊ちゃん育ちの僕でもあれは感動したな。 めんどくさかったのは、他の部屋へタバコを忘れてくるとね、取りに帰るのが大変 (笑)。 2週間ぐらいそこで快適に過ごしたかな? |
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旦那さんと知り合われたきっかけは何だったんですか?
私がダイナーでウエートレスをしていたときにね、しょっちゅうお店に顔を出してくれたおじさんがいたの。 それで、彼と親しくなって会話が弾むようになったの。 『君と年の近い息子がいるから今度連れて来るよ!』って言った次の来店時には本当に息子さんが一緒だったわ。 一目ぼれ。 お互いにね・・・・・・・ 奥さんと知り合われたきっかけは何だったんですか? 僕がレストランに食事に行ってたらね。 そこのお店の店主ご夫婦と仲良くなってね。 それでご夫婦には年の近い女の子がいるから今度君に合わせるよ。 って言われてね。 それからある日の事、お店に行ったら彼女がいたんだよ。 彼女はよその州で大学に行っていたから、ずっと会う事はなかったんだけどね、 半年後にバケーションで帰ってきていた彼女にまた再会してね。 それからだね。 旦那さんと知り合われたきっかけは何だったんですか? 私がまだ語学学校へ通っていた時にね、バス停で知り合ったおばさんがいたの。 そのおばさんと仲良くなって、そのうち彼女の家で食事をご馳走になるようになったの。 貧乏学生にはとってもありがたいことだったわ。 彼女の家にはいつも遊びに来ているおばさんのお友達がいたんだけど、その人とも仲良くなってね。 で、 あるひその方が家に忘れ物をしたのを息子さんがおばさんの家へ届けに来たの。 それがきっかけね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 写真を見せあいこして始まる”お見合い” なる行為はあまりこちらアメリカでは耳にしない。 一応アレンジメントマリーッジという言葉もあるが、実際にこれを行って結婚したという事を耳にした事は今のところ無い。 でも、気がついてみれば、ここにあげたような出会いの話は結構耳にするように思う。 親が気に入って、自分の子供にその子を合わせるようにセットアップする。 これも一種のお見合いなのかも? 最近は e-ハーモニーなんてマッチングしてくれる商売でくっつくカップルも多いけど、あれも見合いの内なのかな? |
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おめでとうございます。生まれたんでしょう?
『ええ、女の子が二人。』 それにしてもぜんぜん出産直後には見えませんね。 『ああ、2ヶ月前はプクプクに太ってたものね。 そりゃもう、ジムで毎日鍛えまくってるわよ!』 お仕事のほうはどうされてるんですか? 『明日からよ。もうナニーが家に来て面倒をみてくれてるの。』 本当は離れたくないんでしょう? 『ええ~。 私がこんな気持ちになるなんて思ってもいなかったわ、片時もあの子達と離れたくないもん。 でもね、弁護士になるのに1800万円もの学費を突っ込んだから、それをこれから返していかなければならないでしょ? 選択の余地無し!』 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー アメリカに引っ越してきて時々思う事があります。 女性解放運動を経て、女性が社会に出て働く事になってから、世の中の貨幣バランスは共働きの合算収入を基準に価値が決定されて、家族の衣食住をまかなうのに二人の収入が必要になってしまったのではないか? って。 ただ、子育て中の母親はやっぱりいくらキャリアを持った女性でも、この女性のように『子供の側にいてやりたい。』ってそう思っているんじゃないかな? 旦那さんが平均収入の2倍は稼がないと奥さんと子供をマイホームを持って養うって事は難しい。 デイケアへ預けても一人$700もしたりするわけだから、子供が二人、三人、となると働いて収入を得る意味も薄れてきちゃいますけどね。 それでも働くというのはやはり仕事に別の思いを見出しているのだろうとは思います。 |
![]() 今年も感謝祭の季節がやってきました。 渡米して間もない頃は、アメリカ育ちの妻の家族の中にいいきなり飛び込んで マスオさん気分を味わった日のことを今でも思い出します。 今年で6回目になるThanksgiving day。 輪になって、手を繋ぎ、お祈りを捧げる顔ぶれと 娘や妻を通して繋がっていると、解っていても、 どうも遠慮がちに甥や姪にハグをしていた僕も。 今ではギュー!って 力いっぱい。 だって、共に6年間積み重ねたものがある。 Happy Thanksgiving day! 今年一年お世話になった方々、思い出をどうもありがとう。 |
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明日はThanksgiving Dayですね、もう七面鳥は捕獲できましたか?
いや、これから狩に行くところだよ。(笑) そうですか・・・・・ うん、近所のスーパーになんだけど・・・・・・ な~んだ、それってズルじゃないですかぁ~! いや、だってもう香ばしく焼けたのが丸々売ってるでしょう? それで十分十分。(笑) でも何で七面鳥なんでしょうね。 それはね、ピューリタンが初めてメイフラワー号でアメリカに渡って来た時に・・・・・Bura Bura Bura.... かぼちゃなんていうのは、ヨーロッパでは家畜の餌だったんだから、当時これを食べなければならない事情はかなり切羽詰まったものだったのだろうと思うよ。 へ~、日本では普通に食べますけどね~。 食文化の違いですね。 日本でいうヒエやアワってところかな? お~! ところで、君は Turducken というのを食べたことはあるかい? 何ですか、それは? Turkey Duck Chiken 骨抜き鶏が骨抜き鴨に詰め込まれて、それがまた七面鳥に詰め込まれたものをグリルする料理なんだよ。 聞くところによると美味しいらしい。 ほうんとうかな~? ただし、僕は食べたことが無いけどね。。。。。。 |
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COOLCUTS家引越し中!
アメリカの家賃は日本の広島の感覚からいくと約2倍の賃料です。 これはたぶん、家主の投資に見合った収入があることを前提に設定されているのだろうと思います。 しかも、年間に約15%ずつ値上がりする事をみんな普通に受け入れています。 だからついつい引越しを繰り返して、これで6年間で5回目の引越しになります。 2年前に暮らし始めた2ベッドルームのアパート、 すぐさま家を購入するつもりだったから長期契約は避けていましたが、一年目で$1650だった家賃が、二年目で$1750に値上がり、そして今年の秋には年間契約にしなければ$2000に引き上げるという通達がありました。 年間契約にすれば$1750 $2000は値上げ率15%どころじゃないです! 最近は市場に出回る中古の家が増えています。 つまり、持ち家をフォークロージャーしてアパートへ住みはじめる人が増えているということです。 だから、家主側はかなり強気です。 マイホーム購入がなかなか進まないまま、月契約の高い家賃をずるずる払い続けてきましたが、いきなり$250UPの宣告は承諾できません。 どちらにしても娘がHi Tech high 小学校に入ったおかげで、別にわざわざ家賃の高いイーストレイクにいる必要は無いので、ちょっと古いけど近所に大きな公園や乗馬クラブ、ゴルフ場のあるBonitaに引っ越す事にしました。 ここは今までよりも$500も安く借りれます。 と、言うことでただいまcoolcuts家は、ただいま自宅にインターネットの環境がありません。 だから、ご近所のスターバックスにやってきてパチパチ、キーボードを叩いています。 それにしても、6年という月というのはなんとも膨大な荷物を作り出すものです。 日本からアメリカへ来る時、あれほどたくさんの物を捨てたにも関わらず、新しいアパートへ荷物を運んでみると、足の踏み場も無いほどダンボールで埋め尽くされた部屋には、テレビの配置を考える猶予も与えてくれません。 いつになったら、ケーブルカンパニーに来てもらえることやら・・・・・・ 病院からやっと帰ってきた iMAC も箱から出さないままセッティングができません。 できるだけ早くにネット環境を整えて、アメリカ生活のレポートを続けたいと思います。 |
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お~!、今日はモッズテイストですね!!
Quadropheniaって映画をご覧になったことがありますか? The Who がBGMを担当した60年代のライダースVSモッズの闘争をモチーフにした映画。 『ええ、知ってるわ。 あの頃の若者は何かしら躍動的だったわね。』 そうですね。 25歳以下の若者あ、全米総人口の25%を占めたベイビーブーマー達。 それまでの古い価値観をひっくり返すパワーがあった。 人権運動に公民権運動、女性差別開放運動、ベトナム戦争の時だって、国を相手にプロテスト。 『私はベトナム戦争反対運動に加わっていたわ。』 あれ? そうなんですか? (そんなふうには見えないが・・・・・) ベトナム戦争は何が若本たちの中でわだかまりとなっていたんですか? 『だって、ベトナムは私たちに何も悪いことはしていなかったじゃない? あれは内戦だったのよ。アメリカは内戦干渉をしただけ。』 そうですね、僕は当時のチェゲバラの考えを支持しているのですが、と 遠い侍の時代の日本がそうだったように、内戦は国のシステムが一つにまとまるのに必要な作業だと思うんです。 アメリカの南北戦争もきっとその類だったのではないかと僕は思っています。 そうね、当時の若者たちもあなたと同様の事を訴えていたわ。でも、事はすでにもっと巨大な勢力争いに発展していたのね。 あの反戦運動では友達が一人死んでしまったのよ。 バリケードで警官に袋叩きにされて、死に物狂いで家に逃げ帰ってきたその夜にね。 内臓が破裂していた。 今でも時々彼の事を思い出すことはあるわ。 だからかどうか判らないけれども、私は何かに生かせてもらっているような気がしてならないの? あれから後も私たちはあらゆる法の壁に挑んで、さまざまな封建的な価値観をひっくり返してきたわ! 私は、私の人生の中で [確かに何かをやってのけた!] そうれは自負して今を生きてるわ! 一生懸命だったのね~、何に対してもあの頃は。 |
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私たちはねホームレス救済活動しているのよ。
『救済活動って食事を給仕したりするんですか?』 う~んもうちょっとひねりがあるわね。 ホームレスに家を持ってもらうっていう活動よ! へえ~、どんな風にするんですか? ウエストコースの守りの要サンディエゴでは、ホームレスたちの多くはベトナム戦争経験者なの。 だから、あの当時からモルヒネの依存症状が抜けない人だったり、メンタル異常を抱えたまま、通常の生活になじめない人がほとんどなのよ。 だから、まずは私たちの団体が彼らに提供するリハビリテーションプログラムを受ける事を前提に、 最終的なゴールは彼らに低所得者ホームを斡旋することなの。 『ええ~! そうなんですか? 僕にも家を世話してくださいよ!』 ダメよ、低所得者じゃないじゃない。 『じゃあ、ホームレスからはじめたら家が買えますか?(笑)』 (爆)もう、本当に笑わせるわね。。。。 『本気です。って!』 ところで、ベトコンももうかなり年をとっちゃいましたね。 『もう半世紀になるからね、これからは湾岸戦争やイラク戦争の影響者を面倒見るようになるのかな?』 *この話から、先日話をしたアシュリーが自力で立ち直った事は、ものすごい事なんだなって思った。 |


































