Top | RSS | Admin
スポンサーサイト  | スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
------------------------------------------------------------
【--/--/-- --:--】   | Top↑






ヤンキース!?  | 移民の歴史
今日からオープニングですね?

ああ、君は野球が好きかい?

ええ、故郷にいた時はもっと好きでした。 

ホームチームで広島カープってのがいて。

今はパドレースで代替えですけどね。

そう? 僕も長くサンディエゴにいるけど、やっぱりヤンキースかな?

ヤンキースっていやNYですね。

ああ、そうだよ。

ところで、ヤンキーってそもそもどういう所から来てるんですか?


語源は ヤンキー・クリッパー って渡航船名称から来てるんだよ。

クリッパーって言ってもバリカンの事じゃないよ。

昔、最初のヨーロッパからの移民が乗って来た船をクリッパーって呼んでてね。

それに乗って来た人たちが ”ヤンキー” とよばれていたんだ。

じゃあ、やっぱりそれは良い意味で呼ばれてるんですね。


北ではね。


これが南部になると内容が違って来る。


最初にアメリカ人が住み着いたのが北部だから、ヤンキーというのは北部の人を呼ぶ名称として扱われてるんだ。

だから、南北戦争の時には ”北部の糞野郎!” と言う意味を込めて ”ヤンキー” という呼び名が蔑まれて呼ばれたんだ。

でも、北の人間からしてみれば、”ヤンキー” というのはやっぱり誇り高き ”ヤンキー” と言う事になる。

この内容は今現在でもまるで変わっていないんだよ。


そうなんですか?


僕はその続きの話を日本に置き換えてお話し出来ますよ。


戦後、米駐留軍がやってきて


日本がアメリカの統治下になった時に、日本人はこの ”ヤンキー” と言う言葉を

米軍兵に対して軽蔑的に浴びせる事がしばしばありました。


その中にはやっかみみたいな事もあったのかな? とは思いますが、多分アメリカ人の事をヤンキーって呼ぶって誰かに聞いたんでしょうね?


それから、闇市や米軍兵相手に飲み屋や売春などを行っている人々に対して、”ヤンキー” の手下的な呼ばれ方をするようになって、この ”ヤンキー" という名称にはあまり良いイメージがつかない時代が日本では長く続きました。


その後は80年代の若者世代の反抗期です。 バイクにまたがり髪を金髪に染めて、集団で黒くて長い服を着て、威圧的に街を練り歩く、暴走族の若者達や学校で校内暴力をする子供達を ”ヤンキー” と呼ばれるようになったのも、髪の色だけでなく、やはり日本人の集団から外れた行動をとる事を象徴する意味合いもあったのかな?
って思います。


そうなんだ、じゃあ、僕が日本に行くと、

みんな僕を ”ヤンキー” って呼ぶのかな? 指差しながら。


違うと思いますよ。


ほとんどの人が、 ”ヤンキー” の語源が ”アメリカ人” の事だったなんて知りませんからね。


多分、”外人さん” って呼ばれると思います。


外人さん?


そう、フォリナーです。


あ、そうですか? 良かった。


いやいや、これはこれでちょっとだけ軽蔑的な意味合いがこもってますけどね。


”よそ者” ですから。


今は言葉だけが残って、その意味を無くした感もあるので、


親しみ込めて呼ぶ人もいますよ。



スポンサーサイト
------------------------------------------------------------
【2015/04/10 16:36】   トラックバック(0) | コメント(1) | Top↑






ベトナムの難民  | 移民の歴史
nanmin2.jpg

貴方はアメリカで生まれ育ったのですか?

はい、私は七歳の時にベトナムを離れました。

まさかボートピープルの一人ですか?

そうです。

あの日、私が家で遊んでいると。

南側の軍で働いていた父が、いつもよりずっと早い時間に仕事から帰って来て、

母の側に行って耳打ちをしたんです。

そしたら、母は急に真っ青な顔になって・・・・・

子供達を呼び集め、

まるで豹変した猫のようにドタバタと家の中をかけずりまわり、

私たちに指図を飛ばしながら、必要な者を大きなバックの中へ詰め込み始めました。

まだ、何がなんだか解らぬままの私たちは、両親に川岸へ連れて来られて。

お父さんの仲間が用意した船に乗り込んだんです。



へえ〜、それでどのくらい海の上にいたんですか?



私たちの乗り込んだ船は中ぐらいの貨物船で普通なら、そのまま太平洋を超えてアメリカへも容易に行けるぐらいの大きさでした。

でも、北側の軍は、難民が国外へ逃げてしまうのを防ぐ為に、予め船底に爆弾で穴をあけていたのです。

船の上にいた大人達はバケツをそれぞれが持って、しみ込んで来る水を絶えずかき出しながら太平洋を目指しました。


私たちの船は丸二日間海の上へ浮かんでいましたが、南シナ海沖で沈没してしまったんです。

その時なんとも幸運な事に、香港の貨物船が通りかかって私たち全員を救助して下さったんです。


私たちは彼らの渡航先アメリカへと一緒に連行されてこの地に辿り着きました。
------------------------------------------------------------

テーマ=戦争 - ジャンル=政治・経済

【2012/10/09 09:12】   トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑






An Interview of Mr. Wakatsuki  | 移民の歴史
_MJH4236.gif

"I am interested to know when you were born."

"Nineteen thirteen."

"I have been living in this country nine years longer than you have. Do you realize that? Yet I am prevented by law from becoming a citizen. I am prevented by low from owning land. I am now separated from my family without case..."

"Who do you want to win this war?"

"I am interested to know where you will be going when you leave."

" Mr.Wakatsuki, if I have to repeat each one of these questions we will be here forever. Who do you want...?"

"When your mother and your father are having a fight, do you want them to kill each other? Or do you just want them to stop fighting?"




この夏のバケーションではMANZANAR日系人収容所へ行って来ました。

娘達をオリエンテーションへ参加させ、[ Farewell to MANZANAR] という一冊の本を購入して帰りました。

帰途の社内でこの本に読みふけり、この一節を読み終えた時にこみ上げる涙が止まらなくなりました。

貴方はこの戦争でどちらが勝って欲しいですか?

貴方の母親と父親が喧嘩を始めた時に、貴方は彼らに殺し合って欲しいと思いますか?

それともすぐにでも喧嘩をやめて欲しいと思いますか?


アメリカ西海岸在住の日系人にとって終戦は苦悩の始まりでした。

もちろん収容所の中でのプライバシーの無い生活環境も快適ではありませんでしたが、

突然のキャンプ送り、荷物は手持ちの鞄に入る分だけが許可され、土地家屋を所持品を全てほぼただ同然で手放さなければなりませんでした。

その当時アメリカ人の時給が$5、日本人の時給は35セントから40セント。 

それでも歯を食いしばって、働いて、白人が平均一日所得$3しか稼いでいなかったのに、日系人は$4を稼ぎだしていたという記録が残っています。

この茶番劇は、アメリカで勤勉に働く日本人が財を成し始めた事に嫉妬した、アメリカ人の謀略でした。

それが証拠に、日本と3国同盟のイタリア、ドイツのどちらの移民に対してもキャンプ送りの命令は下りませんでしたし、日系人に対しても、ほぼターゲットは日系経済の成長率が高かったカリフォルニア州に限られていたのです。

蒋介石と交流のあったルーズベルトは日本の中国侵略の制裁に、日本へのの石油供給を断ってしまいます。

日本軍がハワイへ奇襲攻撃をかけるのも、傍聴と暗号解読でほぼ、アメリカ軍は情報を察知していたとも言われています。

日系人から多くの農地や家屋を買い占めたのは当時巨額の富を作り上げていたオイルカンパニーでした。


終戦は日本人にとって復興の日々でした。しかし、アメリカに暮らす日系人にとっても、偏見と貧乏との戦いでした。

全てを失い、終戦後もカリフォルニアの地に帰る事を許されず、方々に散らばって行った日系人達の多くは0からの出発でした。


歯を食いしばり、見知らぬ土地で必死に働いて。ほぼ80%の日系人がカリフォルニアに帰って来たそうです。


アメリカへ移住して来て、まず僕が感じたのは、日本人の評価の高さでした。

戦時中に汚名奪回の為にボランティア活動に勤しんだ日系人。

100大隊や442戦闘部隊の身を捨てた戦いぶりが、日系人の愛国心を証明しました。

僕たち日本人のアメリカ生活は、こうした先人達の血のにじむような努力と犠牲の上で成り立っています。


年に一度だけでも、終戦記念日を迎えるたびに、彼らの生活の歴史を振り返ってみてはいかがでしょうか?

今自分が置かれている環境にとっても感謝できるとcoolcutsは思います。
------------------------------------------------------------

テーマ=アメリカ生活 - ジャンル=海外情報

【2012/08/17 22:44】   トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑






ゴッドファーザーの島シシリー  | 移民の歴史
私のお父さんね、イタリアのシシリー島から引っ越して来たのよ。

アメリカへ

お父さんが移民して来た理由は?

私の父さんはシシリーで小さな商店を経営していたの。

あちらで商売をするにはマフィアのしゃば代は免れないのよ。

いつもハエのようにブンブン飛び回って、金をせびってはどっかへ飛んで行くの。

あっ1 知ってますよ! 僕ゴッドファザーのゲーム持ってますから・・・

『はぁ ?』

いや、あの、イタリアンマフィアがね。小売店へ行っては店主を殴り脅して金をまき上げるんです。

ええ、そうなのよ。 まったくおんなじ。

父さんの叔父さんはそれを拒否した為にもうメッタメタやられてしまって、それで大けがをしたのよ。


父さんはそんなこんなを見て来て、経験して、シシリーでの商売を断念したの。


今ではアメリカで自由気ままに好きな商売に勤しんでいるわ :)


わあ、あのゴットファザーの世界が本当に起こってたなんてびっくりしました。


『起こってた』じゃなくて、『起こってる』よ。


今でも?

ええ。今でも。 それは怖いですね〜。

でも、観光客にはみんな親切だし、そんな危害は無いわ。

ちょっとみんなまじめすぎるのが難点かな?


そりゃシリアスにもなりますよね〜、、、、、
------------------------------------------------------------

テーマ=イタリア - ジャンル=海外情報

【2012/08/10 15:19】   トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑






日系人収容 と フォーチュンクッキー  | 移民の歴史
fortunecookie.gif

ーーーーーーある日の中国人女性との会話ーーーーーー


南京大虐殺の事は日本でも教えるの?

大まかな内容は教えていると思います。

でも、あの数がね。

数?

そう、殺された中国人の数にしても、その規模にしても、結構不可能な数じゃないか? っていう論争もあるから。
まだ、歴史の記録として詳細は書けないというのが本当のところじゃないですかね?



でも、日本はどうしてパールハーバーで奇襲攻撃なんて事をしたのかしら?


アメリカは日本と戦闘を開始する気はさらさら無かったのに・・・・・


それはどうでしょう? アメリカが中国の後ろ盾になっていたというのはご存知ですよね。

アメリカから日本への石油供給も絶たれていたし、決着をつけなければ日本は干上がってしまって、他のアジアの国々と共に植民地化されてしまう危機にあったんです。

だから、日本はアジア諸国の植民地解放のリーダーシップをとる覚悟を持って戦っていたのだと思いますよ。

その時に、あの南京大虐殺のニュースは日本にとっても不利に働くものだったと思います。


アメリカの国内では特に、ハワイと西海岸で日本人が農業家として経済力をどんどんつけて、ここサンディエゴでもミッションバリーのほとんどの土地と、ダウンタウンの商用ビルの多くを所有するようになっていたんです。

アメリカはひそかに日本人資産家の資産没収を狙っていたという話もあります。

それが証拠にキャンプへ送られた日本人は、ハワイと西海岸地域に限られていました。

東海岸の日本人の中からは資産を持った者はあまりいなかったからです。


そうね、同じ敵性外国人の中でも、ドイツとイタリア人に向けての内容は日本人に向けられる内容に比べると、ぜんぜん軽いものだったらしいですからね。


それで、先日もっとショッキングな話を聞いたのですが

戦時中没収された資産をいったい誰が買ったか? って言う事。

先日日系3世の方がおっしゃっていたのは、

日系人の土地家屋のほとんどはアメリカの石油会社が購入したというんです。


うわ!それが本当ならトンでも無い事ね!


当時私たち中国人は日本人に見間違われないように、『私は日本人ではありません。』という張り紙を衣服につけて歩いたって話だから、かなり差別がひどくなっていたのね。


ところで、日本人が当時失ったものが他にもあるのよ。


何ですか?



フォーチュンクッキーよ!


え?


アメリカで中華料理を食べると必ず食後に配られるおみくじ入りのクッキーね。 

あれはもともとは日本人が考えたの。


日本人が収容された後にサンフランシスコの中華街でそのアイデアを中国人が頂いちゃったってわけ。

もちろん日本人が考えたクッキーは今のものよりも、もっと大きくっておみくじの内容もぜんぜん違っていたって話だけどね。

------------------------------------------------------------

テーマ=アメリカ生活 - ジャンル=海外情報

【2012/01/20 16:06】   トラックバック(0) | コメント(2) | Top↑






アインシュタインの手紙  | 移民の歴史
800px-Einstein-Roosevelt-letter.png


また、8月6日、広島に原爆が投下された日がやってきました。

日本時間ではもう昨日の事になりますね。

さて、毎年のようにこの原爆に関する内容を広島出身の人間としてこのブログに掲載し続けていますが、

今日の主題は、マンハッタン計画の発足に大きく関わったアインシュタインの手紙を取り上げてみたいと思います。

当時、原爆開発に携わった科学者がどのような気持ちでこの死神兵器の開発に当たっていたのか?

僕はこのリサーチを通じて、それをほんのすこし垣間みた気がします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

時は1933年にさかのぼります。

ドイツに住んでいたハンガリー出身のユダヤ人、シラード博士はスーツケースを手にオーストリア行きの列車に飛び乗った。

ナチスドイツの独裁体制の確立を知っての行動だった。

ウィーンではドイツから次々に亡命して来る学者達の受け入れ先を作る為の世話に没頭した。


その後彼はイギリスへ移り住み、オックスフォード大学で教鞭を取る。

その頃『中性子による連鎖反応』の理論的可能性を見ていくつかの特許を取得した。

すでにシラードはこの連鎖反応の中にかつてSF小説で読んだ核戦争の勃発を予見していた。

1938年第二次世界大戦勃発前、アメリカへ亡命する。

アメリカでの彼の核分裂に関する研究は、資金不足の為遅々として進まず。

やがて、あきらめかけていた。 彼は失意のうちにイギリス海軍へ特許の機密指定解除を願い出る手紙を送った直後、核分裂という反応が発見されたという知らせを受ける。

彼は慌てて手紙の取り消しを求める電報を打った。

核兵器実現の可能性を明確にイメージしたシラードは、同時にナチスドイツがその研究開発を行い、完成させる事を懸念していた。

1939年シラードとフェルミの研究グループはコロンビアでウランの核分裂実験を行った。

『私たちがしなければならなかったのは、背もたれに寄りかかりスイッチを入れることだけだった…。〔オシロスコープに〕輝きが現れ、それを10分ほど見つめてから…家へと戻った。 その夜、私は世界が悲しみへと向かっていることを知った。』

シラードはそのときの気持ちをこう記している。


彼はこの実験結果がナチス側に知られる事を恐れ、実験結果を秘密にしておくように強く主張したが、この年の4月末には、ウランの同位体が分離できさえすれば、一つの都市を吹き飛ばす爆弾になりうるというセンセーショナルな記事が新聞を賑わせることになった。


急がなければ、ナチスが核爆弾を手に入れて世界中の国々を破壊してしまうかもしれない・・・・


シラードらはアメリカ政府にドイツの核開発の危険性を訴えたが、亡命者の意見は取り合ってもらえなかった。


そんなおり、親しかった科学者の中で最も知名度の高かったアインシュタインに署名してもらい、ルーズベルト大統領に直談判する事を決定した。

それがアメリカの国家機密核兵器開発プロジェクト マンハッタン・プロジェクト の発足の決定打となった

アインシュタインの手紙でした。

*アインシュタインは手紙に署名しただけで、「マンハッタン計画」には参加していない。彼は、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。


やがて、プロジェクトは亡命ユダヤ人科学者達を中心に延べ15万人の科学者と技術者、そして20億ドルもの資金が投入された。


1945年7月16日にニューメキシコで行われたTrinity実験が、世界最初の核実験でした。

原子爆弾が充分な破壊力を持つ事を証明した。


こうして原子爆弾が完成した時点では、既にドイツは連合軍に降伏していました。

ユダヤ人科学者で構成されていた原子爆弾開発チームにとって、核保持の疑いがあったのはドイツであって、

ユダヤ人の弾圧行為に対する復習もナチスドイツだった。

日本は彼らの仇では無い。

それに、日本帝国はアメリカがわざわざ原爆を投下せずとも、もう資財も燃料も尽き、降伏するのも時間の問題だとういう報告も出ていた。


オッペンハイマーは『20億ドルもの資金をかけて何も結果を見せないのは国民が許さないだろう。』と、言い。

ドイツ出身のユダヤ人科学者ジェームスフランクは、『各国の前でデモンストレーション(砂漠か無人島にて)で示すことにより戦争終結の目的が果たせる。』と主張! 彼は大戦末期の1945年6月11日に、対日戦での原爆の不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を政府に提出した。

シラードにとって「原子爆弾」とは、ナチスの脅威に対抗するためのものであって、日本に使用するためのものではなかった。 再びアインシュタインに手紙に署名してもらい、エレノア・ルーズベルトとの面会日程を取り付けた。 がその日を待たずにルーズベルト大統領は他界した。




アメリカにとっての原爆投下は、もはや同じ連合国だったソ連への威嚇行為に変わっていた。

ソ連は太平洋戦争、戦後処理で最終的にアメリカと互角の立場に立つはずだった。


ユダヤ人亡命科学者達のナチスドイツに対する恐怖が生み出した原子爆弾。

彼らはナチスドイツへの復習と人権保護を願っていた。

アメリカはソ連が欲しがっている日本の領土へ原爆投下する事で戦後処理の優位性を握ろうとしていた。


その挟間においてほんの少しだけ、広島の、そして長崎の運命は揺らいでいた。


ほんの一握りの科学者達が、その運命を変えようと奔走していた。

原爆を考え作り上げてしまった者達が、その恐ろしさを一番よく知っていたからだ。

オッペンハイマーも又、広島の破壊の爪痕を見て、水素爆弾の開発指揮を拒否した。

彼はその地位を剥奪されてしまった。

------------------------------------------------------------

テーマ=戦争・原爆 - ジャンル=政治・経済

【2011/08/08 15:56】   トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑






| Top |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。