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1950年代から1960年代にかけて、米国では「ホモセクシュアル」という「ヘテロセクシュアル」に対立的な言葉を用いるのではなく、「ホモファイル」(同性愛好)という言葉使うようになり、主流社会に対しての同化的な運動が高まった。この運動の方向性は、同性愛と異性愛の平等を重んじ、両者の共通点を強調する戦略が取られた。 1965年、ニューヨークで「ソドミー法」と呼ばれる同性愛行為に対する刑事犯罪法が制定された。 1969年、ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」に対する度重なる警察の嫌がらせと酒類販売法違反名目でレズビアンを摘発し、その連行をきっかけに女装したゲイ男性とレズビアンが警官隊に罵声をあびせながら、ハイヒールや酒瓶を投げつけ始めた。その後、表立ってはゲイとは分からなかった客たちも加わり、三晩にわたって拡大していった。この事件はゲイ・メディア7では「ゲイ革命」とも呼ばれ、この事件をきっかけに同性愛者たちの動きはアメリカ国内にとどまらず、世界に広がり同性愛者たちの運動は急速に展開を始めていった。 1967年にイギリスで1968年にはドイツでそれぞれソドミー法が排止された。 70年代に同性愛が「精神異常リスト」からはずされる 日本ではようやく80年に法律での取締りが解除され、 米国では現在に至っても、違法行為としている州もあります。 つまり50年代以降のゲイ文化は 犯罪者扱いから始まって、精神異常者というレッテルを貼られ ばれると仕事を追われ、地域社会から隔離され・・・・・ 1989年のアメリカ保健社会福祉省調査によれば思春期の自殺者のうち約30%が同性愛者を含めたセクシャルマイノリティであり、 ロンドン大学の調査ではイギリスの同性愛者・両性愛者の3人に2人がうつ病や他の精神疾患を抱えやすいという結果が出ている。日本でも、同性愛者の約6割が自殺を考えたことがあるという研究結果がある。 50年代から続いてきたゲイの民権運動に似た活動と、その中での彼らの抑圧された感情を理解する民衆も序所よに募り始めました。 そして、彼らの思いがついに爆発して開花したのが1970年代後期のロンドンでした。 当時のロンドンはパンクミュージック一色でした。 1978年 ロンドン Steve Strange (後のVisageのボーカル)や Boy George とその中間達は新しい時のセンセーションを模索しながら Billy's nightclub をロンドンのWest Endに”Gossips”というゲイクラブをオープンさせました。 DJのRusty Egan は BowieやRoxy Music そしてKraftwerk、Chicなどのエレクトリックサウンドを好んでかけました。 Steve StrangeはDavid Bowie を広告塔に使い、Mick Jagger さへドレスコード違反で追い返す等のファッションのハイスタンダード化を徹底する事で、clubは同性愛者、異性愛者を問わず、やがて、ハイセンスな若者たちの溜まり場となって行きました。 後にこのクラブはBlitz Club という名称に変わり、ロンドンで唯一、夜11時まで営業しているクラブはおしゃれなKidsたちに人気の夜遊びスポットになり、いつしか彼らは Blitz Kids と呼ばれるようになる。 Steve とEganは Visage というバンドを1978年に結成。 そのユニセックスな奇抜なファッションとエレクトリックサウンドで80年代初頭には、New Romantics のさきがけとなりました。 彼らのビデオクリップは当時のBlitz Kids 文化が伺えます。 オーナーのSteveがゲイカルチャーを巻き込んで展開したクラブシーンからは数多くのファッションデザイナーを輩出し、[ STYLE MAGAZINES] や[i-D] [THE FACE] などの雑誌にも影響を与えるほどセンスの高いムーブメントとなった。 NEW ROMANTICS ムーブメントが頂点を極めていた1981年頃、ムーブメントの火付け役の一人だったBoy Georgeらが"CULTURE CLUB"を結成。 エレクトロニクスサウンドと当時ジャマイカのボブマリーが全世界へ発信して真新しかったレゲエサウンドを融合させた作風で幅広いファン層と獲得した。 Boy のソウルフルな歌声、そしてホワイトラスタを意識したヘアースタイル、勤めていた[FOUNDRY]というブティックの為に自らがデザインしたBlitzな衣装はとても奇抜で斬新だったけれども、それを受け入れる土壌がすでに整っていたのでした。 正に、『小田がつき、羽柴がこねし天下もち、座りしままに食うは徳川。』 という事でしょうか? デビュー早々82年にはDo you realy want to hurt me? が全英でナンバーワンを獲得! 当時は気がつきませんでしたが、このPVを改めてみているとこの映像の中に秘められた真のメッセージが伺えます。 |
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これまでRise Againstは、Fat Wreckが支援している大統領の再選を求める団体PunkVoter.comのサポートをはじめ、パンクロックシーンの中での人種差別、動物愛護、精神病患者に対する非人道的な治療法などに対してメッセージを送ってきている。 「エイズ飢饉救済と貿易条約の不公平訴えたい! アフリカ以外の世界の人に対して、アフリカで何が起きているのか問題意識をもってほしいんだ」 と暑く語るTim ディープなメッセージを引っさげて何かが変化するきっかけ作りを彼らは地道にパフォーマンスという形で表現し続ける。 |
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世の中の多くの人がこの歌をNat King Coleのオリジナル作品だと思っているが、実際には1927年に発足した国道66号線協会が1940年代に打った、ルート66の利用者増を狙ったプロモーションテーマソングで、Bobby Troupが書いたものをNat King Coleによって初めて1941年にレコーディングされました。60年代には再びThe Rolling Stones のカヴァー曲がヒットしています。 その後この曲は恐慌、さまざまな国の政策や西海岸ブーム、ヒッピー文化の開花などを経てカリフォルニアの発展とともにさまざまなアーティストに歌い継がれてきました。 その後協会はフリーウエー40号線の設置計画が進む中1976年に解散しましたがこの歌の人気は根強く。 1990年、アリゾナ州とミズーリ州でそれぞれルート66協会(Route 66 Association)が発足した。 40s Nat King Cole 60s The Rolling Stones 70s Dr.Feelgood 80s Depeche Mode 00s The Legendary Tiger Man Asleep At The Wheel John Mayer |
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Paper Planes この歌はM・I・Aの作品で、密入国者の事をアイロニカルに歌った作品。 本人自身もスリランカの国内紛争の際にイギリスへ亡命した体験を持つ。 あ〜あそうさ!あたいらは命がけでここへやってくる。 わるさをして、あんたのお金を頂にくるんだよ! もちろんほんとうにそんな事をこの歌が言いたいわけでは無い。 皆、自国でもっとシリアスな現状に直面している。彼らは明日の命をつなぐ為に亡命してくるんだって、何で解らないかな〜? って言いたいの!彼らに来て欲しくなかったらもっと他に、根本的な問題があるでしょう? そんなM・I・A の本音が隠されたメッセージ。 M・I・A Missing In Action(戦闘中行方不明)の略。本名マタンギ・マヤ・アルプラガサムは両親が仕事の都合でイングランドに滞在していた頃にロンドンのハウンズローにて生まれた。 半年後には両親とともにスリランカに渡る。しかしスリランカのタミル人による独立自治権を求める武装勢力組織LTTEのオリジナル・メンバーである父はまもなく政府に身を追われるようになり、彼は家族と生き別れになる。 内戦を通じてマヤ達一家は多くの親戚や友人をなくし、マヤが11歳になる頃には母とマヤ達三人の子供を連れ難民としてイングランドに移住する。そこでマヤはパブリック・エナミーなどのヒップホップ、およびダンスホールレゲエといったクラブミュージックに初めて触れた。 著名なデザイナーを輩出しているセントラル・セント・マーティンズ美術学校を卒業。エラスティカのツアーのドキュメンタリー映像なども手がけ、映像ディレクターとしても活躍。ツアー中前座を務めていたPeachesとの出会いが音楽を始めたきっかけ。 M・I・A Myspace |
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1960年先進資本主義諸国は着々と経済成長を続け、中産階級の幅はますます拡大して行った。 また、第二次世界大戦以降起こったベビー・ブームのあおりでアメリカの全人口の50%が25歳以下イギリスでは10%、フランスでは30%以上が20歳以下。 豊かな消費力を持つ若者層が全購買力の50%を占拠した時代。 その反面世界的に資本主義国と社会主義国の緊張が続き、先進国が軒並み大躍進期に入る中、軍需依存体質を強めたアメリカの国際競争力は低下していった。 キューバ危機、ベルリンの壁の設置、ケネディー暗殺、ベトナム戦争介入、マルコムX暗殺、キング牧師暗殺、ソ連のチェコスロバキアへの軍事介入・・・・・・・巨大な権力が、民衆の望む道を阻み、若者達を失望させた。 公民権運動、反戦運動が力強い叫び声となって、【Youth Quake】 と呼ばれる学生運動が世界中で波状的に起こった。 若者は自分で稼いだお金と暇を洋服と音楽に注ぎ若者文化を作り上げた。 自分たちの求めるスタイルを単純でストレートなメッセージと様式で表現するカウンターカルチャーが欧米を中心に爆発的に広がっていった。 この時代に劇的に変化を遂げたのは、若さ=未熟で幼い という考えを 若さこそが全てだ! という価値観に変えてしまった事にある。 これらを背景にファッションとグラッフィックスをミックスしたスィンギング・ロンドンが誕生した。 やがて1967年にはイギリスで妊娠中絶、離婚、ゲイに対する進歩的な法案が提出され革新的な法改正がなされた。 もはや若者達は社会そのものの仕組みを覆してしまうパワーを得たのです。 白人中流階級の若者達の中では、とりわけMods(Moderns)というスタイルが爆発的に流行した。 ヒップスタやビートニックなどの黒人音楽を背景に発展して来た仕立ての良いスーツを着込み、50年代後期に商業音楽としてメロウになりすぎたロックンロールに再びブラック・ビートの息吹を吹き込んだ音楽。 ドラッグとナルシズム、クラブで朝までダンスに興じた。 その当時の旧社会とモダン社会の確執は広がる一方、The Who は彼らの代表作の 【My Generation】 という歌の中で 『ジジイになる前に死んでやる!』 と歌った。 1975年に当時17歳だったポール・ウエラはこの The Whoの名曲を聴いてすっかりモッズのとりこになってしまった。 その後そして1977年には 【In The City】でデヴューを飾る。 何処を見てもパンク一色だった当時のイギリスで登場した彼らは当時パンクムーブメントの一部として受け入れられたが、次第にNeo Mods という新しいムーブメントへと認知されていった。 1979年にはモッズ と ライダース の暴動を描いた 【Quadrophenia】が劇場公開されている。 60年代を駆け抜けたモダニズムの波は多くの若者達の革新的なさまざまな運動によって支えられてきました。 しかし、暗殺、圧力、とことごとくその目論見は権力に弾圧されていきました。 当時世界規模で起こった学生運動はカウンターカルチャー(抵抗文化)が最大ボルテージに達した事の証だったのでしょう。 そして、80年代向けて・・・・・ それでも無視され続けた若者達の生活が再び呼び起こしたカウンターカルチャーの中で単なるファッションと暴力的行動と化していくパンクムーブメントを横目に、はっきりとした主張を持った音楽として生き残っていったのがこのNeo Modsでした。 ♪ この街の中で、あんたに言いたい事はうざるほどあるんだ! だけど、俺があんたに話しかけようとするといつも俺を見下して相手にしない 俺は発言したいんだ! そう、若者のアイデアを伝えたいんだ! だけどあんたはいつだって、そいつを恐怖へと作り変えてしまうんだ。 ♪ そして・・・・・・・・ 彼ら作り上げたミレニアムの時代に、あの頃の叫び声が届いているのだろうか? |
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17世紀バロックの時代にイギリスで掲げられた理想像 【デモクラシー】 は 19世紀に入ってローバート・オウエンの手によって手がけられた産業の理想的な姿、産業革命の産声となって長年にわたる貴族階級の支配が揺らぎ始めた。 しかし、やがて人々は気づく事になる。 ただ単に、中産階級から富を得た新しい支配層ブルジョアジーが生まれたに過ぎない事を。 巨額の富を得たブルジョアジーは貴族のように振舞いたがり、そして貴族階級はブルジョアジーを貴族社会へ迎え入れる事を拒み、自分たちの階層を宮廷文化の中で保護する態度を貫き、イギリスに複雑な階級制度が形成される事となる。 表向きは資本主義、内情は全て王国階級制度の枠組みの中に組み込まれていた。 第二次世界大戦直後、労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「イギリス病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。 かつてアナーキズム(無政府主義)政治団体に所属していたマルコム・マックラーレンはヴィヴィアン・ウエストウッドに出会いブティック「レット・イット・ロック」をキングロード430番地にオープン。 1974年に店名を 【SEX】 に変え、1975年にはそのお店の従業員と常連客によって【THE SEX PISTOLS】を結成した。 高い失業率や根強い階級制度にあえぐ若者たちを、強烈なビートと暴力性をムキ出しにしたパンク・ムーブメントは下層階級の若者たちの心をすぐに捕らえてしまった。 彼らの身に着けるアイテムは、引き裂かれたイギリスの国旗、黒く塗りつぶされた女王の肖像。そしてナチスドイツのシンボルマーク、軍服、囚人服をモチーフに作られたパンアイルランドやスコットランド等のコスチュームをベースにした衣装。どれもこれもユナイテッド・キングダムに反発することを象徴したものばかり。 本来イギリス国歌であるGod Save The Queenは女王を称え、国家の繁栄を望むものでしたが、彼らの代表作で同名のGod Save The Queenは 『神よ女王を救いたまえ! 彼女の独裁政権を! イギリスに未来なんて無い!!!』 なんて茶化して歌っています。 PUNKはもう究極の階級差バッシングだったんですね〜 僕が高校卒業したばかりの頃、たくさんのイギリス人が広島で英語の先生として働いていました。 契約期間が切れて母国へ帰っていったかと思うと、また何ヶ月かすると戻ってきます。 『日本がよっぽど気に入ったんだね?』 って聞くと、『イギリスへいても仕事が無いのよ。だから日本へ出稼ぎに来るの。』と答えていました。 当時のイギリスの若者は本当にフラストレーションがたまっていたんだなって思います。 |
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FREEDOM '90/GEORGE MICHAEL 2008年6月16日、カリフォルニアのゲイカップルの婚姻が認められたニュースを知ったジョージマイケルが 翌日のサンディエゴ後援でアンコール曲に選んだ歌 Wham! 時代の彼がBrooke Shields, や Whoopi Goldberg そして Melissa Megginson 他大女優達との交際がささやかれたりしましたが、この楽曲が発表された3年後、恋人のファッションデザイナーFeleppa が エイズで他界した後に全てを公の場に明かす事を決意しカミングアウトした。 この歌はFelppaに出会う一年前に歌われた歌で、自分らしく生きる決意を力強く表現している。 |
![]() 今日はスポーツアリーナで行われた George Michael のコンサート へ行った。 このブログではよく英詩を日本語に訳してのせていますが、高校時代にまだLP版だった Wham!の解散アルバム、WhiteAlbumの英詩を辞書を片手に意訳にトライしたのがきっかけっていうぐらいよく聞きまくったアーティストだけにちょっと興奮気味でした。 彼のステージは中央とその両脇に大型のスクリーンが用意されて、中央部分は足元までデジタル映像が映し出され、芸術そのもの。 今回のコンサートはCareless Whisperや、Till the end of tme そしてPraying For Time, Faith等等・・・新しい曲は主にユーロビート系やイギリスのポップシーンでエイミーワインハウスに代表さえるようなキャバレー調オールドジャズ+ウーマンリブの詩の融合系等もあった。 ほんとうに曲目が新旧織り交じっていて、80年代ポップスターがどういうトレンドの中を駆け抜けていたのか? なんとなく理解できたような気がします。 当時青春を送った僕も今年で40才、ひとつの世代を生きるという事は色々な事が見えてくるものですね〜 彼の 【I want your sex (87)】という歌に代表すされるように、80年代当時はポピュラーソングでの性的描写の自由化がどんどん進んだ時代だったような気がします。 プリンスが 【Dirty Mind (80) 】で性描写の露骨さに放送禁止になりながらも 【Purple Rain(84)】ではポルノムービーか?というような映像と共に卑猥な楽曲を発表して世間に受け入れさせた。先日この作品を再度観て、女性の性の解放とDVを扱った作品だった事に気がつきました。 続いてストーンズの 【Harlem Shuffle(87)】 なども見事な描写力で表現の自由のテーマに挑んでいる。彼らの場合は 【Brown Suger (71)】 の頃の男性主導型だった描写とはまるっきり姿を変えている。 日本でもオフコースが【YES NO (80)】という楽曲の中に『君を抱いていいの?』というフレーズを入れたが為に社会的問題作となったのもちょうどこの頃にあたります。 1928年にイギリスで出版された 【チャタレイ夫人の恋人】 という作品がその赤裸々な性的描写が理由で数々の弾圧を受けながらも、再度頭角を表したのは1960年代に入ってからの事。 実際に一般の若者がそれを読むことを許されるまで、実に30年の月日を費やしている。 それにしても、会場内にはゲイカップルの多い事多い事・・・・・・・ さて、今回のジョージ・マイケルのコンサートは、80年代から90年代にかけての彼のヒット曲を数多く盛り込んだ内容でした。 彼もまたマドンナと同じように、性的描写やマテリアルスティックになっていく若者達の風刺が2大テーマだったようです。 音楽的には当時多かったラテン音楽との融合が数多く見られ、80年代に移民が増加した現状を反映しています。 60年代の始まったモダニズムにはアポロの月面着陸の報道を機に人間のテクノロジーが宇宙をも支配する可能性を秘めているという驕りがありベトナム戦争で幕を閉じました。 70年代はその反動でカウンターカルチャー的な要素が濃く出て、ヒッピー文化を育みました。 60年代は公民権運動、70年代は女性解放運動、 そして80年代にイギリスから始まり、密かに産声を上げていたものは性の解放と同性愛者の解放運動 Blitz Kids 達の中からBoy Georgeを代表するようなビジュアル系ミュージシャンが数多く輩出されました。 その反動で男性的デザインやハードロック、ヘビーメタル等の重めなサウンドも頭角を現しました。 モダニズムが封建的な社会を壊していき、豊かな国力の下に、人々はより多くの自由を求めるようになりました。それが表現力の自由となって、ゲイ達の表現の幅が広がったのは事実でしょう。 今考えると、それは垂れ幕の無いデモクラシーと言うにふさわしいそんな気がします。 そして、それから20年以上経った今・・・・・・・ George Michel は叫び声を上げました。 『昨日たくさんのゲイカップルが結婚しましたね!』 そう、とうとうカリフォルニア州がゲイカップルに対して婚姻の権利を認めたんです。 皆さん既にご存知の通り彼はゲイです。 良き理解者であった母親が死に、そして一生のパートナーとまで考えていたボーイフレンドにエイズで先立たれ、苦しみの中で耐え切れずカミング・アウトしたGeorge。 今、こうして当時の彼の作品を再び聞く機会が得られた時、彼の長年閉ざし続けた心の叫びが聞こえて来ました。 【careless wisper】が観客総立ちの中で歌われて、会場が真っ暗になりました。 鳴り止まないアンコールの拍手! 再び現れたジョージに会場がいっせいに気勢を上げる! 最後の歌はやっぱりこれだね! 【FREEDOM’90】(90) 君に知っておいて欲しい事があるんだ、それは僕の奥底にある何かについて。 FREEDOM! FREEDOME! 叫び声のように歌う彼が、当時どのような気持ちでこの歌を歌ったのかを今やっと理解する事ができました。 |
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ナチスドイツの空襲下に置かれたリバプールで生まれ 父アルフレッドが商船隊員として航海中 母ジュリアは他の男と同棲して出て行った ジョンはジュリアの姉であるミミ夫婦のもとで育てられることとなる。 父が戦争から帰って来た時、ジョンを引き取るが ジュリアがジョンを連れ戻す だけど、ジュリアはまたジョンをミミ夫婦に預け 以後父は行方不明 そんなジョンレノンの生い立ちから 彼がこの歌を歌いこむごとに 魂からの叫び声に変えていったのだと思う Mother 全世界の愛情深い母達へ Happy Mothers day! |
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かつて、これほどアマチュアのパフォーマンスが、観衆の心を打った事があっただろうか? 2007年にイギリスのタレント発掘TV番組 『Britans Got Tarent』で見事グランドチャンピョンに輝き レコード会社との契約を獲得した PAUL POTTS そのあまりの反響に、公式発表を待たずに日本公演が進められてきた。 日本時間の今日4月29日と明日4月30日に渋谷のオーチャードホールにて来日公演が行われる予定になっている。 イギリスのブリストルの片田舎でバスの運転手の父とスーパーのレジ係の母の平凡な家庭で4人兄弟の一人として生まれた彼は、子供の頃からずっといじめられっ子だったせいか、自分に自信を持つ事が困難でした。 唯一そんな彼に日常のすべてを忘れさせてくれたのが歌を歌う事。 やがて、彼はオペラを自分の職業にしたいと思うようになる。 いたくたびもオーディションに挑戦して挫折して、それでもオペラへの情熱は冷めず、イタリアでボイストレーニングを受ける。 そしてやっと手に入れた華やかな栄光! 携帯電話のセールスマンが一夜にして期待のテノール歌手に! セミファイナル、ファイナルとじょじょに自信がみなぎってくる彼の表情も見ものです。 かつて coolcuts もいじめられっ子でした。 そんな僕が何かを変えたくて、中学二年生の時に突如として生徒会へ立候補した時のことを思い出しました。 講堂の壇上に立ったとたん、目の前に広がる人の壁が、冷ややかな目線で僕を見下ろしているんです。 誰も僕の演説に期待なんかしていないんです。 僕の場合、結果は惨敗でしたが、演説だけは手が震えながらも必死で怖さと戦いながら最後まで終えました。 会場から起こった拍手がだんだん大きくなって、僕の心の中で何かが溶けしだしていくのを感じた。 それは、とても温かかった・・・・・・・ その挑戦があったおかげで、役員を任せられて、少しずつ積極的な子供へと変化して行きました。 チャレンジすることは自分の中で何かが変化する事なんだと思います。 いじめられっ子参上! ってやってごらん、明日から違う自分が見つかるかもしれないよ。 |
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Plain White Ts のリードボーカル、Tomによって書かれたこの歌は、彼がハイスクールの時に出会った障害物競馬の騎手 Delilah DiCrescenzo を想いその気持ちを表現した歌。 高校生だった彼は彼女をデートに誘ったが振られてしまう。 『今まで出会った女の子の中で一番美しい子だった』と語っている。 彼はその時に彼女の気を惹く為に彼女の為の曲を書いたんだと嘘をついたが その一年後にこの曲が完成している。 噂では、この曲にピッタリの韻を踏むこの名前が採用されたのでは?という噂もあるが 彼自身は『もっとも純粋で恋愛な真っ直ぐな気持ちを綴ったうただ。』とそれに対して返答している。 いずれにしてもこの曲は2007から2008年にかけてもっとも全米のラジオで流れiTunesのダウンロード 件数も Sean KingstonのBeautiful Girlsに抜かれるまでは史上最高の記録をたたき出していた。 最近アメリカでは実話に基づいた、男性が女性を純粋に想い、その気持ちを素直に表現した歌が流行しているような気がします。 |
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金曜日から奥さんと義理の妹はラスベガス入りをした。 友人を見舞うそのために 呼吸器につながれて 脳内のわずかな部分だけが動いているだけのその女性は 多くの友人が次から次へと見舞う中 目を閉じたままで、一言も発せずに ただ横たわっているだけだったそうです。 『生命』というのはいったいどういうものなのでしょうか? もし、彼女のご両親が判断を下して 呼吸器のスイッチを切ってしまえば 彼女はまるでスイッチをオフにしたテレビのように脈打つ事無く まったくの生命活動を絶ってしまう・・・・・・・ 今日は一人で家にいる気がしなかったので、仕事が終わってから友人の誘いで アマチュアシンガーソングライターの弾き語りライブを聞きに行った。 最後の方で彼女が歌った曲は 【Fading out from me】 というフレーズを何度も何度も美しいハーモニーで繰り返し歌っていた。 それ以外の内容はまったくといって良いほど聞き取れなかったけれど それをずっと聞いていると、なんだか切なくなってきた。 残された4人のお子さん そしてご両親 友人達 彼らの記憶の中から彼女の存在が薄れていくなんて事は今は考えられないし もし、そんなことがおこりうるとしたら悲しい事だと思う でも、記憶が少しずつ薄れていく事で前向きになれるというのも事実だろうと思う つくずく今、ここでこの瞬間を生きているという事は奇跡にも似た現象なのだなと思う。 |
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テーマ=♪音楽PV & 歌詞♪ - ジャンル=音楽 |
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1978年にイギリスで発売されたクイーンの【JAZZ】に収録されている Bycicle Race 1959年から1975年の長期に渡り続いたベトナム戦争 アメリカの経済はその戦費の為に圧迫され 世論はLove & Peace を声高らかに叫び始めた そんなおり、1972年に起きたウォーターゲート事件は政治不信をどんどん深めていき、 1974年にはニクソン大統領が辞任に追い込まれている。 日本ではこれまたニクソンがらみのロッキード事件で騒がれた田中首相が同年に首相を辞任している。 かつては巨大なパワーを持ってCIAを操り情報工作でクリーンなイメージを守り続けたアメリカ合衆国大統領が、メディアという民衆の力によって引きずり降ろされる。 そんな風潮の中でこの歌が生まれました。 それほど、ここにもベビーブーマーパワーが働いていたのでしょう。 日本では1972年に 井上陽水の【傘が無い】がヒットしています。 まるでバロック時代以前に帰化したかのように格差の広がった社会で、 多くの人が借金返済に苦しみながら、人員削減の刃が襲う。 繰り返される戦争、自由が権力に暗殺される、政治不信 今の時代を70年代の出来事と照らし合わせて考えると、 何故、 今の若者は黙ってみているだけなのだろう? と、そう思う。 でも21世紀の氾濫は、暴動なんかでは無く もっと直接的な方法で行われている 理不尽なローンを良しとしたローン会社や銀行に 突然家賃の支払いを放棄する事で、アメリカ経済に自分達の怒りをぶつけているのです。 今の時代だからこそ、こんな歌が出てきてもおかしくないのになぁ〜 |
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20年代に黒人大衆運動として起こったガーヴェイ運動家達がKKK団と命がけで戦い 60年代はマーティンルーサーキング牧師を中心に盛り上がりをみせた公民権運動とマルコムX を広告塔に勢力を極めたブラックナショナリズム そしてキングが逝きマルコムも凶弾に倒れました。 公民権獲得が成功したかのように見えた70年代 格差社会は改善される事無く 80年代 不況の最中、アフリカン・アメリカン若年層の失業率はその人口の約40%、コケイジアンの2倍の数値 50年代の56.4%に僅差となっていた。 彼らの平均年収は白人家族の平均の6割程度だった。 やがて若者達は再びマイクを握り壇上へ上がった アイス・キューブが、パブリック・エナミーが韻を踏み ラップがマルコムX をよみがえらせた。 Too Black, Too Strong.Too Black Too Strong---. やがてロスで暴動が起きた あれからさらに20年を費やした現在、カトリナハリケーンの被災地で貧困層の病院への救助活動が後回しにされるなど 人種差別をめぐる問題は絶えることが無い そして2008年 ココへ来て大統領選で勢いに乗るオバマを支援するために will.I.Am がマイクを握った!! YES WE CAN はオバマの大統領選演説の映像とともに複数のミュージシャンによって競演されている。 You Tube や各ニュース・ステーションを媒体として発信される、エンターテイメントによるこの運動が、かつてのリーダー達の命を奪った頃の国家のあり方とはまったく違う土壌を切り開いて欲しい。 民衆の声の中にダイレクトに届くYes We Can は、まるで誰でも願いを叶えることができる、そう思わせてくれる。 |
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先日行われたグラミー賞で最多ノミネートの末5つの部門を総なめにしたAmy Winehouse その盛況ぶりは母国イギリスばかりかこちらアメリカでもかなり盛り上がっています。 さあ、どうして今Amyがこれほどまでに熱いのでしょうか? この曲はAmyの代表作Rehabをパロディー化したものですが、このたびの授賞式も 英国で薬物中毒のリハビリ中で渡米は叶わず、出演は衛星放送によるものでした。 Amyの歌声に惚れきっているcoolcutsは彼女がアメリカ公演を実現できる日が楽しみで仕方がありません。 が、その前に、 きちんと更生して、世のため人のためになる楽曲を沢山産み落として欲しいものです。 そして、このYOUTUBEの【裏 Rehab】 がその後にアップされていたので、ご紹介します! 彼女のプライベートや色々な映像を見ているからとってもおかしい。 でも、実際にはこのようなタレントが世の中に出てくる事が、何か世の中で起こっている事や 考え方を象徴しているのだとしたら・・・・・・・・ これは笑い事ではすまないかもしれません。 Rehab 原曲 |
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Falling Down /Duran Duran 80thブームの追い風にのって最近頻繁な活動を見せている DuranDuran ですが。 この歌の詩は結構意味深ですね。 恐らくサブプライム問題や、アメリカの浪費と国外ドルの流通過多などによるユーロの反撃!! などなど、贅を尽くし、権力を振りまいた付けという内容なのでしょうか? と〜ってもネガティヴな詩が現在の不況の最中、耐え抜いている人々の心中を代弁しているような歌ですね。 coolcutsはこんな悩める人の心をもっと深みに落としこめるような内容はあまり好きではありませんが、これも御時世というものでしょうか? 祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。 とかぶってしまった。 |
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2008年最初のご紹介曲、まずは景気のいいこの曲から 出だしは変に思い悩まずに! 阿呆な気分で行きましょう!! まるでイグニッションキーを回しながら アクセル全開ってな感じでいいじゃないですか!! Let's get it started here!
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私ね、ハリウッドで The Black Eyed Peas の アップルのマネージャーをしているの 『え?ってあのThe Black Eyed Peasですか?』 (僕はお店の壁に張ってある彼らの写真を指差した) あのセルジオ・メンデスとのカップリングは最高でしたね 彼らはラテンとヒップホップの融合ってどうやって思いついたんですか? もともとこのは The Black Eyed Peas リーダー格のウィルとアップルが高校の同級生で、最初に結成したユニットなのでアップルとウィルの音楽性がかなり強く出てると思うの。 特にアップルはフィリピン人とアフリカンのハーフで14歳まではフィリピンで育って、その後養子縁組でアメリカに渡ってきたという生い立ちから、フィリピンの土着音楽からの影響も大きいの。 だから自然とラテンやアジアの民族音楽にも興味深深で、ありとあらゆる国の持つ音楽を貪欲に取り組んでいるわ。 彼は自分がフィリピン人であることをとても誇りに思っているから、The Black Eyed Peas のアルバムの中でタガログ語で歌っている歌がいくつかあるのよ。 だから、セルジオメンデスの40周年祈念アルバムへの参加は決してメンバー達には特別な事では無くて、彼らの音楽の心情を刺激するものだったのよ。 現在私のボスの アップルは ソロアルバム製作へ向けて動いているの。 そのためにフィリピンへしばらく行っているので私はちょっとした休暇が |





